1990年代、日本車のなかでも世界中の物好きから注目されていたのが、軽自動車のスポーツカーでした。しかし、バブル崩壊後の景気後退と排ガス規制強化により、21世紀を迎える前に軒並み生産終了となっていたなか、国内でも厚い支持を得たのが、ダイハツの「コペン」でした。鈴木均氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、詳しく見ていきましょう。
日本勢が撤退したF1は「イタリア車」の独占状態に
日本でガラパゴスな文化が温存された一方、日本人の海外への興味関心はバブル崩壊と関係なく継続した。日本勢が撤退した後のF1は、長くチャンピオンに君臨したミハエル・シューマッハとフェラーリの栄冠が焦点となり、日本で人気が続いた。
ミハエル・シューマッハ(愛称シューミー)はドイツ人初のF1ドライバーズ・チャンピオンであり、近年イギリス人のルイス・ハミルトンに破られるまで、最多優勝など多くの記録を作った。
シューミーが初めて年間タイトルを勝ち取ったのは、セナが事故死するなど、何かと荒れた94年である。プライベート・ジャンボ旅客機を所有するなど、彼は最も稼いだアスリートの1人だったが、決して裕福な家庭に育ったわけではない。幼少期から父親の友人の伝手でカートに乗り、他のチームが捨てた使い古しのタイヤを拾って使うなど、いまから見ればエコな苦労人である。おかげで人一倍、レース中の運転が丁寧・繊細でタイヤを労わる走りだった。
シューマッハを表彰台の常連にしたフェラーリの親会社は、フィアットである。この「フランスはシトロエンを持っているが、フィアットはイタリアを持っている」とまで揶揄される巨大複合企業の歴史を見てみよう。
フィアットは創業家のアニェッリ一族が経営を握る、陸海空の全てに跨がる巨大メーカーである。1899年の創業で、1908年に初めて航空機エンジンの開発に成功すると同時に、自動車の北米輸出もはじめ、たちまちイタリア最大の自動車メーカーになった。両大戦では航空機、小銃、トラックをはじめ、何でも作った。そして戦間期、国内自動車市場の8割をフィアットが占めた。
戦前・戦中は独裁者ムッソリーニに協力したため、第二次大戦後、アニェッリ一族は60年代まで経営から追放された。66年に一族が経営に復帰すると、アルファ・ロメオをはじめ、イタリア・ブランドを片っ端から買収しはじめ、ランボルギーニなどの例外を除き、再びほぼ独占状態となった。
なぜ日本人がフェラーリ含むフィアット車をチヤホヤしたのか。フランスも日本車の締め出しに熱心だったが、アニェッリ一族はイタリア政府のみならず、EC・EUの首都ブリュッセルでも絶大な影響力を誇り、いわばEC・EUから日本車を締め出そうとした張本人である。しかも故障が多い。口さがないイギリス人などは、「FIATとは、もう一度修理してくれ、整備士のトミー君(Fix It Again Tommy)の略称」と嫌味を言う。
その対極として世界的に名声を得た「壊れない」日本車だったのだが、それでもなお惹きつけられる魔力が「イタ車」にはあるようだ。
鈴木 均
合同会社未来モビリT研究 代表