ナポレオンの「感染力」は南アメリカに及ぶ

アメリカ大陸に目を転じます。

ナポレオンの影響で、米英戦争が起きて、アメリカが連合王国から経済的な独立も果たしたのでしたね。

南アメリカでも各国が独立していきます。スペイン領のベネズエラでは、シモン・ボリバルが独立を宣言します。ボリバルはヨーロッパでナポレオンの軍隊にいたことがあって、自由・平等・友愛に「感染」していました。アルゼンチン、チリ、メキシコ、ペルー、ブラジルも独立していきます。すべてナポレオンの影響です。

1823年には、アメリカがモンロー宣言を出します。アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の「相互不干渉」を主張した大統領の教書です。でも、本当のところは、ヨーロッパ諸国に「アメリカ大陸のことに口を出すなよ」といいたかったのです。その代わり、アメリカもヨーロッパのことには口を出しませんよ、というわけです。このあたりからアメリカは、南米も含めて新大陸の盟主は自分だという自負を見せるようになってきました。

中国がアヘンで貿易赤字に転じ、アジアはたそがれる

1827年、中国から銀の流出が始まります。中国が貿易赤字になったということです。理由は、東インド会社のアヘン貿易です。19世紀のアジアは、たそがれていきます。

それまで中国は超貿易黒字国でした。18世紀の間に、中国から連合王国へのお茶の輸出量は400倍になっていました。なぜかというと、産業革命後、工場労働者を長時間働かせるため、紅茶を飲ませていたからです。砂糖を入れた紅茶を与えると、気つけ薬のように労働者が即座に元気になりました。そのうち貴族にもアフタヌーン・ティーという習慣が生まれます。

お茶の代金は、国際通貨である銀で支払っていましたが、そのうち連合王国の銀が枯渇しました。そこで、こっそりアヘンを中国に輸出したのです。中国は何度もアヘン禁止令を出しましたが、麻薬であるアヘンの需要はどんどん増えていきました。それで中国から銀が流出するようになったのです。中国では税を銀で支払うので、銀が不足して高騰すると実質的な増税です。

たまりかねたの政府は、林則徐欽差大臣(特命大臣)に任命して広州に派遣しました。林則徐は広州に赴任するにあたって北京中の洋書を買い占めたそうです。そして陸路で広州に向かう長い道中、同行させた学者に買い占めた洋書に書いてあることを語り聞かせてもらいました。

広州に着いた林則徐は、道中で得た知識に基づき、アヘンを強制的に没収して化学処分しました。連合王国はびっくりしました。「こいつは今までの清の役人と違う。めちゃ賢い。えらいことや」と。そこで戦争を仕掛けました。アヘン戦争です。

連合王国は、林則徐が防御を固めた広州を避け、北京の外港、天津に向かって大砲を撃ち込みます。清の宮廷はびびって、林則徐をクビにしました。その結果、南京条約が結ばれ、アヘン戦争は終結しました。中国は連合王国に香港を割譲し、上海など5港を開港します。しかし、肝心のアヘンについては一切触れていませんでした。ということは、今まで通りにやっていいということで、中国はアヘンでガタガタになります。

林則徐は新疆に左遷されます。このとき、友人の魏源という学者に、北京で集めた洋書すべてと大金を渡します。「ここに書いてあることはめちゃ役に立ったから中国語に翻訳してくれ」と。めちゃ偉いですね。魏源という学者も偉くてほぼすべてを漢訳します。それが『海国図志』で、のちに日本の佐久間象山吉田松陰、そして幕末の志士たちが西洋のことを学ぶためにひもといた本です。

ガタガタになった中国では、1843年、洪秀全が自らをキリストの弟として「拝上帝会」という教団を結成します。さらに「太平天国」を建国し、清朝に反乱を起こしました。

南京条約で開港した上海に1845年、外国人の居住を認める租界が設定されます。ここから上海の発展が始まります。

この年、連合王国は、インド北西部のパンジャーブ地方で、シク教徒と開戦します。ここでも2回に分けて戦争して、その結果、インドのほぼすべてを占領することになります。17世紀に栄華を誇ったアジア4大帝国の一角であるインドのムガール朝も落日を迎え、アジアのたそがれはいよいよ深まっていきます。