19世紀、ナポレオンは皇帝となり、数々の戦争で勝利を納めます。しかし、そんなナポレオンの勢いもながくは続かず、ついに戦争に敗れ、失脚するときがやってきます。立命館アジア太平洋大学(APU) 学長特命補佐である出口治明の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、ナポレオンの失脚とその後の世界情勢について詳しく見ていきましょう。
負けたのに領土を減らさなかったタレーランの外交力
ナポレオンが退位した後、連合王国とオーストリア、ロシア、プロイセンはウィーン会議を始めます。ところが舞踏会を開くばかりで、「会議は踊る、されど進まず」といった状況です。それを見たナポレオンは1815年、エルバ島を脱し、皇帝に復帰します。けれど、ワーテルローの戦いで連合軍に敗れて再び退位します。いわゆる「百日天下」です。
ウィーン会議とは、要するにナポレオン失脚の後始末で、戦争に負けたのはフランスですよね。プロイセンがナポレオンに負けたときには領土が半分くらいになっています。だから今度はフランスの領土が半分くらいになってもおかしくないはずです。
ところがフランスにはタレーランという、とんでもない策士がいました。ナポレオンにも仕えたこの外相は、「悪いのはナポレオンでもフランスでもなく、フランス革命です。王様を処刑したことが何よりもいけなかった」というロジックをつくり上げました。だから「フランス革命の前の状態に戻せばいい。それで、すべてが丸く収まりますよ」と、主張したのです。
すると、ヨーロッパの皇帝や国王たちは、「確かにそうだ」と納得してしまいました。だから、「フランス革命の前の状態に戻そう」ということになって、フランスは革命前の領土をほとんど失わずに済んだのです。軍事力がなくても、誰もが納得する理屈をつくり上げれば外交交渉を制することができるという素晴らしい見本です。
タレーランがうまいことやれたのには、会議を主催したオーストリアの外相メッテルニヒがあまり賢くなかったということもあったかもしれません。メッテルニヒは、小細工はすごくうまい人でしたが、大局観を持っていませんでした。
とばっちりが相次ぐウィーン体制
ウィーン会議の結果です。
プロイセンはナポレオンに削られた領土を取り戻しましたが、フランスはブルボン朝時代の領土を削られていません。タレーランのロジックのせいです。
ヴェネツィアなどの共和国は全部、潰されました。タレーランのロジックは「革命が悪い」「王様の政治に戻す」ですから、共和政は否定されます。ヴェネツィアは、オーストリアの支配下に入りました。ヴェネツィアにしてみれば、とばっちりです。
連合王国は、ネーデルラントからスリランカとケープ植民地を分捕りました。ネーデルラントの国王がナポレオンの弟だったからです。しかし、ネーデルラントにしてみれば、ナポレオンに押し付けられただけの王様ですから、迷惑な話です。そんな理由で連合王国は、インド洋交易の要所2カ所を押さえたのです。
ロシアはフィンランドとポーランドの大公位と王位を得ました。
以上がウィーン体制です。
出口治明
立命館アジア太平洋大学(APU)
学長特命補佐