19世紀、ナポレオンは皇帝となり、数々の戦争で勝利を納めます。しかし、そんなナポレオンの勢いもながくは続かず、ついに戦争に敗れ、失脚するときがやってきます。立命館アジア太平洋大学(APU) 学長特命補佐である出口治明の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、ナポレオンの失脚とその後の世界情勢について詳しく見ていきましょう。
GDPで概観、覇権がアジアから欧米に移った19世紀
1820年の世界の国内総生産(GDP)を見ると、中国とインドで世界のほぼ半分を占めています。中国が32.9%で、インドが16.0%です。連合王国は5.2%でした。
それから50年後の1870年のGDPを見ると、中国は1820年の約半分になって17.2%、インドも12.2%で、かなり落ちています。一方、インドを植民地にして大英帝国の繁栄を築いた連合王国はシェアを高めます。連合王国の9.1%にインドの12.2%を加えると、世界の2割ぐらいを占めるようになります。つまり中国を追い越して世界一になりました。注目すべきはアメリカで、1.8%から8.9%まで拡大し、連合王国に匹敵するレベルです。
19世紀とは、覇権がアジアから欧米列強に移った世紀だということが数字からわかります。
ナポレオンのエジプト遠征から頭角を現したムハンマド・アリー
18世紀末、ナポレオンがエジプト遠征をしましたね。エジプトは当時、オスマン朝の支配下にありました。オスマン朝は、ムハンマド・アリーというアルバニア人をエジプトに派遣しました。この人物が1805年、エジプト総督に推挙されて、ムハンマド・アリー朝が事実上、成立します。
アラビア半島には、ワッハーブ派という厳格なスンナ派を奉じるサウード家が王国を築いていました。サウード家があまりに過激なのでオスマン朝が怒り、ムハンマド・アリーに討伐を命じます。ムハンマド・アリーはワッハーブ王国を滅ぼしました。
アダム・スミスの理論を法律で完成させた、ナポレオン
1804年、ナポレオンが皇帝になります。
ヨーロッパの歴史に登場した偉大な皇帝を挙げるなら、まずローマ帝国のカエサル。そして、ルネサンスを先取りしたフェデリーコ2世。次にナポレオンの3人です。厳密にいえば、カエサルは皇帝にはなっていませんが、カエサルの名前そのものが皇帝の称号になっていますよね。
ナポレオンが皇帝になった年にフランス民法典が公布されます。画期的だったのは、近代的な所有権を初めて定めたことです。資本主義経済は個人の所有権が認められて初めて機能します。アダム・スミスが市場経済を提唱したのは18世紀のことでしたが、その法的な枠組みを完成させたのはナポレオンです。