交易の重要性を知るナポレオンは大陸を封鎖した

ヨーロッパ大陸に大国が出現したら、必ず潰す方向に動くのが連合王国です。1805年、オーストリア、ロシア、プロイセンと大同盟を結び、戦争を始めます。トラファルガーの海戦で、連合王国の提督ネルソンがフランス海軍を打ち破ります。ナポレオンは、陸戦で盛り返します。ロシアのアレクサンドル1世とオーストリアのフランツ1世と相まみえたアウステルリッツの戦い(三帝会戦)では大勝します。

1806年、ナポレオンはプロイセンを蹂躙し、ベルリンに入城すると、大陸封鎖令を出しました。連合王国とヨーロッパ諸国の交易を禁止したのです。連合王国にとって大陸とのつながりは、インドの存在と並ぶ生命線であることを、ナポレオンは理解していました。ヨーロッパ諸国との交易を止めてしまえば、音を上げるだろうという作戦です。

ナポレオン軍が「自由・平等・友愛」と「ネーションステート」を拡散

ナポレオンはヨーロッパ中で戦争して、ほとんどの陸戦で勝利を収めます。なぜ強かったかというと「自由・平等・友愛」の理念で、兵士を鼓舞したからです。「我々が戦うのは、領土を得るためではない。フランス革命の自由・平等・友愛の精神を諸国に広め、圧政に苦しむ人々を解放するために戦うのだ」と。

この理念に酔いしれたのは、フランス兵ばかりではありませんでした。

ナポレオンに敗れたプロイセンは、領土が半分になりました。崩壊寸前になったプロイセンで、哲学者フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」という連続14回の講演をしました。

このタイトルに注目してください。それまで、自分のことを「ドイツ国民」と思う人はいませんでした。人々の自己意識は「プロイセン人」であり「バイエルン人」でした。つまり、この時期に初めて「ドイツ」という想像の共同体、すなわちネーションステート(国民国家)が生まれたわけです。ナポレオンがプロイセンを蹂躙したことで、ドイツ国民としての意識が生まれ、燃え上がったのです。ドイツだけでなく、ナポレオンが進軍した後には、自由・平等・友愛という「はしか」に感染した人々が出てきて、自分たちのネーションステートをつくろうという動きが出てきます。

1812年、アメリカと連合王国が米英戦争を始めます。なぜかといえば、ナポレオンの大陸封鎖令に対抗して、連合王国も封鎖令を出したので、アメリカとヨーロッパが交易できなくなってしまったのです。それでアメリカが怒って戦争を始めたわけです。政治的にはすでに独立していたアメリカですが、これで経済的にも連合王国から独立します。