80年代、日本車はファミリーカーとして発展しただけでなく、レースにおいても活躍を見せていました。その変遷をたどっていきましょう。鈴木均氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、詳しく解説します。
盗難や襲撃の被害に遭うことも…〈命懸けの過酷さ〉にもかかわらず、世界の名だたる自動車メーカーが「パリ・ダカール・ラリー」にこぞって参戦したワケ【歴史】
日本車、WRCとラリーを席巻
87年にWRCのグループBが廃止された後、規制を強化したグループAで結果を出したのが、ランチア・デルタHFだった。デルタは87年から92年までメーカー・タイトルを連覇し、ドライバーの年間タイトルでも87年から89年まで制した。
これに一矢報いたのが、トヨタ・セリカだった。カルロス・サインツが90年に四駆のセリカを駆ってドライバーズ・タイトルを勝ち取ると、続く92年から94年にドライバーズ・タイトル、そしてついに93年にデルタを下してマニュファクチャラーズ・タイトルも獲得した。以降、2000年まで、WRCはセリカとスバル・インプレッサ、三菱ランサー・エボリューションのタイトル争いになっていった。
三菱はパリ・ダカール・ラリー(以下、パリダカ)にも83年から参戦した。パリダカは比較的歴史が浅く、第1回大会は78年末から年をまたいで開かれた。パリを出発し、バルセロナからアフリカ大陸に渡ってセネガルの首都ダカールを目指した競技である。1万2000キロ近い行程のほとんどは未舗装路、砂漠という、非常に過酷なレースである。1日当たり1000キロ(高速道路で東京・門司港に相当)近く走破する、かなりのスプリント・レースでもある。
パリダカ優勝は、その車の信頼性と「公務執行能力」の証明になるため、各社がこぞってチャレンジした。初回の優勝は、レンジローバーとヤマハXT500だった。
パリダカには、プジョー、ルノー、VW、ベンツ、ポルシェに加え、ロールス・ロイス、果ては東側からラーダまでも出走している。三菱は83年に初参戦した後、84年にパジェロが3位に入賞、そして85年に初優勝を果たした。同年は2位もパジェロ、3位にトヨタ・ランドクルーザーが入賞した。パジェロは86年に3位入賞した後、87年も篠塚建次郎が運転して3位、翌年2位に輝いた。篠塚の、また日本人ドライバーとしての悲願の初優勝は、ダカール・ラリーとして行われた97年だ。
パリダカの過酷さは、単なる自動車レースの範疇を大きく超えていた。競技車両の盗難被害、盗賊やテロ組織の襲撃、紛争地帯の地雷を踏んで乗員が焼死するなど、枚挙にいとまがない。地元住民を巻き込んだ人身事故も少なくなく、開催地はその後、テロの脅迫を受けて2009年にアフリカ大陸から南米に移り、2020年からはサウジアラビアで開催されている。
鈴木 均
合同会社未来モビリT研究 代表