自動車のトップメーカーの栄枯盛衰は、豊かさと安定の指標、そして国際政治の動向を色濃く反映しています。中でも80年代は、バブル経済によって自動車産業も大きく動いていきました。自動車評論家の鈴木均氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、80年代における日本のクルマ事情について詳しく見ていきましょう。
「オプション」だったエアバッグが、徐々に標準装備に
バブル経済の沸騰と消費生活の国際化は、日本車のモノづくりにも影響を与えた。それまでは贅沢品だった装備が、オプションではなく、標準装備となりはじめた。
自動車用のエアバッグの特許は、52年にアメリカ、53年にドイツで取得された。しかし当時のエアバッグは圧縮空気で展開したため、乗員を保護できる早さで開かなかった。これを現在のように火薬によって瞬時に展開できるよう63年に発明したのが、小堀保三郎だった。小堀は栃木県出身、小学校卒業後に奉公に出て以降、全て独学で学んだ努力の人だった。14ヵ国でエアバッグの特許を取得したが、肝心の日本では火薬の使用が消防法に抵触し、採用されなかった。資金難に陥った小堀は、75年に夫婦で心中している。世界的な発明は、母国で孤立無援のまま見殺しにされたのだった。
その間、アメリカでは小堀に似た発想で研究が続けられ、GMが73年、政府に納入するシボレー・インパラにエアバッグを装備した。GMは翌74年に高級車トロネードに乗員保護用も含むエアバッグを装備した。52年の特許も海軍エンジニアによる発明であり、国防面での使用が前面に出ていた。エアバッグの世界的な普及は、小堀の取得した特許の期限が切れた後だった。
1980年、満を持してベンツがSクラスにオプションでエアバッグを装備した。ベンツはエアバッグの展開とシートベルトの締め上げを連動させ、GMのような補助的な位置付けではなく、統合されたシステムに昇華させた。ベンツは、取得した特許を無償公開した。ボルボがシートベルトの特許を無償公開したエピソードを彷彿とさせる。
エアバッグは当初はSクラスの上級グレードのオプション装備だったが、徐々に標準装備となった。190Eも本国では登場時(82年)からエアバッグを装備していたが、日本の法律でエアバッグ装着車の輸入が許可されたのは、ようやく87年になってからである。すでに米独で消費者保護の十分な実績があったものを何年も排除し続けた姿勢には、疑問を抱かざるをえない。しかも、それは日本人の発明だった。
エアバッグを初めて装備した国産車は、87年のホンダ・レジェンドである。85年の登場後、北米向けのレジェンドは86年からエアバッグを装備していた。火薬法の改正もあり、その後エアバッグは各社が採用するようになった。90年に登場した二代目レジェンドは、日本で初めて助手席エアバッグを装備した。こうして助手席エアバッグ、膝ガード、側面エアバッグなど、乗員保護の技術は進歩していった。室内上部に展開するカーテンエアバッグを世界で初めて装備したのは、98年に登場したトヨタ・プログレである。
鈴木 均
合同会社未来モビリT研究 代表