自動車のトップメーカーの栄枯盛衰は、豊かさと安定の指標、そして国際政治の動向を色濃く反映しています。中でも80年代は、バブル経済によって自動車産業も大きく動いていきました。自動車評論家の鈴木均氏の著書『自動車の世界史』(中央公論新社)より、80年代における日本のクルマ事情について詳しく見ていきましょう。
インドの将来性に賭けたのが「スズキ」だった
日米英で小さな政府を目指す動きが活発化するなか、そのような質素倹約を是とするメーカー、スズキが大きく躍進したのは、単なる偶然ではないだろう。以下でその軌跡を紹介したい。
スズキは1909年創業の織機メーカーが前身である。1952年、自転車補助エンジンのブームに乗ってオートバイ開発に着手し、55年に四輪軽自動車に進出した。スズキは73年から2006年まで、軽自動車の販売台数が日本一だった。
1981年8月、スズキは米GMと提携し、この頃から黄金の拡大期に突入した。先立つ78年に鈴木修が社長に就任し、国内で蓄積した小型車のノウハウを武器に、81年2月にインド政府と合弁会社マルチ・ウドヨグを立ち上げた。当時インドの総人口は約7億人だったが、GDPは衰退するイギリスの半分に満たず、人口約2500万人規模のカナダにも及ばなかった。
インドの初代首相、ジャワハルラル・ネルーの孫にあたるサンジャイ・ガンジーは、国民車構想を実現するため71年にマルチを創業したが、80年に航空機の事故で死去してしまった。彼の事故死に伴い、同社は81年2月に国有化され、マルチ・ウドヨグに社名を改めて提携先を探した。日系メーカーが貧しい大国を歯牙にもかけないなか、スズキはインドの将来性に賭けた。
83年10月、スズキ・アルトをベースにしたマルチ800がラインオフして市場を席巻し、インドの国民車となった。マルチ・ウドヨグは輸入独占権も得て、インドはスズキ車の独壇場となった。85年には四駆車、そして86年からはアルトも生産するようになり、ヨーロッパ向けに輸出を開始した。これがハンガリー進出の足掛かりとなり、今日に至る。他社がバブル経済に浮かれ、大きく豪華絢爛な車に手を広げるなか、スズキは得意分野で徹底して「小さく」勝負した。