「プラザ合意」によりバブル経済に突入

80年代中盤になると、日系北米工場がほぼ出そろった。トヨタ、日産、ホンダのアメリカ工場設立に続く形で、85年にはマツダ・フォードと三菱・クライスラー、87年にスバル・いすゞの現地生産会社が設立された。

80年代は軍事的な緊張が高まった一方、先進国の間でも経済対立が先鋭化した。レーガン大統領は、日本や西欧諸国の貿易黒字がアメリカ経済に打撃を与えていると非難し、解消を強く求めた。85年9月、日米英独仏の蔵相は極秘にニューヨークのプラザホテルで会合し、協調してドル安介入を行うことで合意した。プラザ合意である。先進国の中央銀行が一斉に手持ちのドルを売り、自国通貨を買い戻した。直前まで円ドル相場は1ドル240円近辺で推移していたが、一夜にして20円近く円高になり、1年後には150円台となった。

当然、日本国内は大騒ぎになり、バブル経済に突入することになる。急激な円高により、海外旅行費用が突如半額に落ちたと想像してほしい。たとえば輸入車の値段が夕方のデパ地下のごとく半額近く値引きされたとしたら、早く買わなければ損である。まさに「泡」のごとく、突如経済が沸きたった。広末涼子主演映画『バブルへGO!!』を見ると、その狂乱ぶりの一端を疑似体験することができる。

実際のところ、ブランド・イメージもあるため、輸入高級車は大きく値引きされなかった。むしろプレミアが付き、それでも飛ぶように売れたのが、バブル経済だった。日本の消費生活は突如、意図せず、準備もないまま、急速に国際化することとなった。BMW3シリーズとベンツ190Eが、陸揚げされるやすぐに売れた。そして両車は六本木のカローラ、赤坂のサニーと呼ばれるくらい都内に溢れた。

BMW3シリーズは同社の主力商品であり、75年に登場して以来、ベンツではないスポーティーな選択肢が欲しいユーザーのニーズに応えてきた。81年にBMWの日本法人が立ち上がると、3シリーズは主力商品になった。85年には、ベースモデルに徹底的に手を入れたM3が発売され、本国のDTM(ツーリングカー選手権)でベンツ190Eと激戦を繰り広げた。バブル経済が輸入車を身近な存在にした功績は大きい。国際的に非難を浴び続けた日本の貿易黒字を(少し)減らす作用もあった。