子ども時代や青春時代を取り戻すつもりで漂ってみる

これまでも述べてきた読書に関しても、現役時代は仕事に役立てようとしたことが多かったのではないか。でも、退職後は遊びとして楽しむ、そのためだけに読めばいいのである。

若い頃に書物に親しんでいた人も、現役時代にはなかなかそんな時間はもてなかったのではないだろうか。いつか暇になったらじっくり読もうと思って買っておいた本が家に溜まっているという人もいるだろう。

そのような人も、いざ暇ができてみると、何だか読む気力が湧かない、やっぱりもっと若いときに読んでおくべきだったなどと嘆く。だが、今さらそんなことを言ってもしようがない。

本をじっくり読む気力が湧かないといっても、それは老化によって脳が劣化したというわけではない。慣れの問題が大きい。

得意先に営業をして回ったり、事務的な書類を作成したり、会議に出たり、契約相手と交渉したりと、実務的な生活に浸っていると、効率的に動く癖が身に染みついてしまい、本とじっくり向き合い、その世界に入り込んでいく心のモードになりにくいのだ。そこは慣れるしかない。

家に溜まっている本を読むのもいいが、そこに義務感が付随すると、どうしても気力が湧きにくい。そんなときは新鮮な気分で書物に向き合うことを心がけたい。

ただ面白そうだから読む、何となく気になるから読む、いわば遊びとして読むのである。仕事に直接役立つ実務的な本ばかり読んでいた頃と比べて、はるかに贅沢な時間を過ごしていると言ってよいだろう。

勤勉に働き続けてくると、遊ぶ楽しさから遠ざかってしまう。遊ぶ楽しさは、それが効率や実利とは無縁であるところからもたらされる。

子どもの頃に多くの人がはまったプラモデルもパズルも、そのプロセスが楽しくてワクワクするのであって、完成してしまったらもう楽しみもおしまいとなる。

本を読んで楽しむのも、読んでいる途中がワクワクして楽しいのであって、読み終わったら楽しみの時間も終わってしまう。だから、終わりに近づくと、「もうすぐ終わってしまう」と淋しい気持ちになり、わざとゆっくり読むという人もいるくらいである。効率性の原理とはまったく無縁の世界なのである。

青春時代に友だちとああだこうだとしゃべって暇を潰すのが楽しかったのも、仕事上の打ち合わせなどと違って、まったく無目的に心が漂っていたからである。

定年後の生活を思う存分楽しむには、子ども時代の心や青春時代の心を取り戻すつもりで無目的に漂ってみるのもよいだろう。そこで大切なのは、無駄を楽しむ気持ちの余裕をもつことだ。

そのためには、現役時代に身に染みついてしまった「ムダ=悪」という発想を捨てることである。功利的な観点からは何の役にも立たずムダであっても、道草気分で積極的に楽しんでしまう心の余裕をもつことである。むしろムダだからこそ楽しいといった境地に達するべきではないか。

目的地に向かって一目散に急ごうとする大人は、道端のものにいちいち興味を示して直線的に進んでくれない子どもにイライラするかもしれない。そこには時間がもったいないといった意識があるはずだが、ほんとうにもったいない時間の使い方をしているのはどっちだろうか。

歩き始めの子どもにとっては、道を歩きながら目に触れるすべてが珍しく、ワクワクするほど刺激的なのである。花が咲いていれば、近づいて触ってみたい。匂いもかいでみたい。アリがエサを運んでいれば、どこに行くのか見届けたい。チョウチョが飛んでいれば追いかけたい。バッタが跳ぶのが見えれば、やはり追いかけてみたい。

このような時間の過ごし方をする子どもと比べて、目的地に到達するための単なる手段としてただひたすら道を歩く大人は、非常に無味乾燥な時間を過ごしていると言わざるを得ない。もっとムダを楽しむ心の余裕をもつことで、豊かな時を過ごすことができる。

どこかに行く途中で道を間違えて意図しない場所に迷い込んだようなときも、時間の許す限り、急いで軌道修正したりせずに、たまたま訪れた場所を楽しんでみる。好奇心をもって街並みを歩き、気になる店があれば覗き、公園があればベンチに座って周囲を観察し、腹が減っていれば食欲をそそる店に入ってみる。

本や雑誌、新聞などを読むにも、役立ちそうな情報に目を通すといった姿勢を捨てるように心がける。そんなふうに過ごすことで自由な状況に徐々に馴染んでいくはずだ。

榎本 博明
MP人間科学研究所
代表/心理学博士