日本の書家としてあまりにも有名な空海。没後は「弘法大師」の諡号を与えられ、“筆”がつく諺が作られるほどの書の名人でした。本稿では、前田鎌利氏の著書『世界のビジネスエリートを唸らせる教養としての書道』(自由国民社)より一部を抜粋し、そんな空海が残した「これだけは押さえておきたい」書作品についてみていきます。
日本で書家といえば「空海」
日本でもっともメジャーな書家は誰かと問われると、その筆頭に上がるのは空海です。もちろん、空海以外にも書家は多数存在しますが、日本の書の歴史においてどの書籍を見ても空海に触れないことはまずないでしょう。
空海(774年〜835年)は平安時代初期の僧侶で、真言宗の開祖です。
讃岐國(現在の香川県)で生まれて、803年に遣唐使として、後に天台宗の開祖となる最澄(766年〜822年)と共に密教を学びに中国へ渡ります。最澄は8カ月で帰国しましたが、空海は2年で密教の灌頂(正統な継承者とするための儀式のこと)を受けて帰国したのち、高野山に金剛峯寺を開きました。
空海はなんといっても書の名人としてその名を馳せています。
空海が亡くなった後(86年後)に醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(貴人や高徳の人に、死後贈る名前。おくりな)が贈られました。
弘法大師にまつわる「筆」がつくことわざで次の2つをご存じでしょうか?
弘法筆を選ばず・・・本当の名人は、道具の善しあしなど問題にしないというたとえ
弘法にも筆の誤り・・・どんな名人・達人にも、時には失敗することがあるというたとえ
※ 嵯峨天皇の命令で応天門の額の字を書いたのですが、「應(応)」の字の「心」の点を一つ書き漏らしてしまい、筆を投げて点を打ったという逸話から「すごい人は間違えてもその直し方がすごい。さすがである」という意味もこのことわざには含まれています。
筆がことわざに含まれること自体すごいことですよね。それもそのはず。空海は三筆(三人の書の名人)の一人に名を連ねています。平安時代初期における三筆とは空海・嵯峨天皇・橘逸勢の三人を指します。
空海には様々な逸話があるのですが、その中でも五筆和尚は面白いエピソード。
遣唐使で唐に渡って密教を学んでいた最中のこと、唐の都、長安の宮中に2間に渡る壁面があり、王羲之の書が書かれていたのですが、長い歳月により書が消えてしまった状態でした。
王羲之の名声に気圧されて筆をとって修復に応ずる者が誰もいなかったところで、当時の順宗皇帝は唐に留学していた空海が書の達人だと聞いて、宮中に呼び寄せ、依頼したところ、空海は、なんと両手両足に筆を持ち、口にも筆をくわえて壁に向かって座り、五本の筆を動かして一気呵成に五行詩をしたためたそうです。
順宗皇帝が感嘆して、空海に「五筆和尚」の称号を与えたそうです。
似たような話で、聖徳太子が一度に多くの人の話を聞くことができた逸話がありますが、一度にたくさんのことができるというのは古からの超人のなせる業として、その人物を神格化して言い伝えられていくようです。