日本の書家としてあまりにも有名な空海。没後は「弘法大師」の諡号を与えられ、“筆”がつく諺が作られるほどの書の名人でした。本稿では、前田鎌利氏の著書『世界のビジネスエリートを唸らせる教養としての書道』(自由国民社)より一部を抜粋し、そんな空海が残した「これだけは押さえておきたい」書作品についてみていきます。
日本でもっともメジャーな書家・空海…“三筆”の一人に数えられた名人の「これだけは押さえておきたい」書作品【全国700名を指導する書家が解説】
空海の書
空海の残した書の中でこれだけは押さえておきたい書作品をご紹介したいと思います。
風信帖(国宝)
風信帖は、空海が最澄に宛てた3通の尺牘(手紙のこと)を1巻の巻物として収めたものです(1通目が『風信帖』2通目が『忽披帖』3通目が『忽恵帖』)。
これらの書は空海が63歳頃に最澄宛に書いたものです。
最澄は空海の7歳年上ですから、空海は目上の最澄に丁寧に手紙を書いています。
密教の灌頂を受けた空海から学ぶべきことが多数あることを知った最澄は、空海に学んできた真言密教の教えを学ぶために典籍(書物)を借り受けて書写したようですが、密教は実践することが重要とのことで、空海は徐々に最澄に「実践すべきなのに……」と思うようになって仲は冷めていき、最終的には断絶に至ります。
風信帖は王羲之の書法に則して書かれています。
特に風信帖に出てくる「風」は蘭亭序に出てくる書風とかなり酷似しています。
書体は行書と草書で、文字の大小や潤渇の変化、リズムなどそれぞれの作品から受け取ることができます。
灌頂記(国宝)
弘仁3年(812年)11月15日と12月14日、弘仁4年(813年)3月6日に高雄山寺(現在の京都神護寺)で、空海が真言の灌頂を授けた記録です。この、灌頂を受けた中に、最澄がいることに驚きます。
最澄は空海と同時期に唐に渡りますが、最澄は長安で密教の本質的なことが学べず帰国してしまいました。
それを日本に戻ってから空海の教えを乞い、灌頂を授かりました。
すでに天台宗を開基していたにもかかわらず、自ら足りない部分があるからと謙虚に真言宗も学ぶ姿勢はすごいなと思いますが、それ以上に最澄の申し入れを受け入れた空海の懐の深さに感嘆します。
平安初期の日本を代表する海外から戻ってきた二人の大スターのやり取りがこうして時を超えて残っているのが書のすごいところです。
書体は行書と草書で書かれていますが、空海以外の方が書いたところもあると考えられています。
書法は唐の顔真卿(709年〜785年。唐の四大家*の一人)の書法が多分に感じられます。
*唐の四大家。初唐の三大家である欧陽詢(おうようじゅん)、虞世南(ぐせいなん)、褚遂良(ちょすいりょう)の三人に、中唐の顔真卿を含めた四人の書の名人の総称。