時代の遷移にともなって「書」の特徴も変化し続けています。現代に残された書作品からは、各時代の特色を感じ取ることができるでしょう。そこで本稿では、前田鎌利氏の著書『世界のビジネスエリートを唸らせる教養としての書道』(自由国民社)より一部を抜粋し、書の逸話について解説します。
坂本龍馬「エヘンの手紙」と幕末の三舟
幕末といえば勤王の志士たちが明治維新へと日本中を駆け巡った熱い時代。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文などの幕末から明治にかけて、時代を駆け抜けた若者たちもそれぞれ書状を残しているのですが、中でもとりわけ司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(文藝春秋)や大河ドラマ「龍馬伝」の主人公である坂本龍馬の書状はとてもユニークです。
プライベートな書状が多数残っているのも、龍馬ファンが多い理由の一つではないでしょうか。
龍馬の自筆の一つに姉の坂本乙女宛に書いた通称「エヘンの手紙」があります。
内容は、勝海舟という大先生の門下生となり、責任ある立場となったことを「エヘンエヘン」と擬声語を使って姉に自慢している手紙です。時代を先駆けて世界を見つめる勝海舟の弟子となれたことがさぞかし嬉しかったのでしょう。現代であれば、「俺、チョーやばくない?」といった感じでしょうか。
エヘンという擬声語を何度も表記することで、この書状に込められた感情が溢れ出てきます。これまで紹介してきたどの書状よりも私信のせいか表現力が高められその興奮が踊るような文字の揺れた書きぶりにも表れています。
自由闊達に今の気持ちを相手に伝えることを情感たっぷりに手紙に込めて相手に届けるところは、龍馬の人間味が漂ってきますね。龍馬28歳頃の1863年に書かれたものですが、悲しいことに4年後には近江屋で襲撃に遭い、暗殺されてしまいます。
この手紙は漢字とひらがな、かたかなが混じって書かれているもので、身内に対してですから、かしこまらずに、伸びやかに行間、行の揺れ、文字のくずし具合や、自由な空気が伝わってきます。
この龍馬の師匠に当たる勝海舟。彼を含めて幕末の書が上手な方が三人います。「幕末の三舟」といわれる三人の書です。
幕末の三舟
幕末の三舟とは「勝海舟」「高橋泥舟」「山岡鐵舟」という名前に舟がつく三人です。
勝海舟はいわずと知れた江戸無血開城の立役者で知られていますが、実のところ徳川慶喜が西郷隆盛との交渉の使者として最初に選んだのは高橋泥舟でした。しかし、当時の江戸は不安な情勢のため、泥舟はその治安維持の役目から江戸の地を離れることができません。
そこで、信頼のおける義理の弟にあたる山岡鐵舟を推挙します。
勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、鐵舟が西郷と駿府で事前交渉を行います。西郷からいくつかの条件が提示され、その一つに徳川慶喜の身柄を備前藩にあずけることが示されましたが、鐵舟はそれを断固拒否。江戸百万の民と主君の命を守るべく、死を覚悟で交渉に臨む姿に、西郷は後日、鐵舟のことを次のように賞賛しました。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
この山岡鐵舟は剣と禅と書の達人としてその名を馳せており、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖です。
鐵舟は人から頼まれれば断らずに書を書いたとのことで、全国色々なところで鐵舟の書を見ることができます。一説には生涯に100万枚書したともいわれています。
その一つが東京銀座にある老舗のパン屋「木村家」の看板の書です。初代当主の木村安兵衛と山岡鐵舟は明治維新の前に剣術を通じて知り合い、その後、鐵舟が明治天皇の侍従をしている際に鐵舟の推挙により、あんぱんを明治天皇に献上したそうです。
現在この看板は残念ながら関東大震災で焼失してしまったそうで、そのレプリカが残っています。
鐵舟の書は剣豪の気質がそのまま豪快で力強く厳格な線に表れながらも豊かな円運動と組み合わせた書風で愛好家も多数お見えになります。
鐵舟が埋葬されているのは、明治維新の際に殉じた人々を弔うために自身が建立した全生庵(東京都台東区谷中)です。こちらの平井正修住職にお会いして、鐵舟の書を拝見させていただきました。
亡くなる前に沐浴をして座禅をしたまま53歳の若さで往生したその生涯は、自身にただただ厳しく歩んだことが、その書から溢れ伝わるものでした。