19世紀ドイツの哲学者ニーチェにより書かれた書籍「ツァラトゥストラ」は、世界的名著です。「ツァラトゥストラ」が誕生した背景と、ニーチェの従来とは違う哲学の思考方法について見ていきましょう。自己肯定感が上がるニーチェの哲学について、著書『超要約 哲学書100冊から世界が見える!』(三笠書房)より白取春彦氏が解説します。
ニーチェが「身体は大いなる理性である」と考える理由
その原初的な価値の1つは、わたしたちの身体です。
キリスト教など世間一般の価値観では、身体は精神や霊よりも下位に置かれています。しかしながら、ツァラトゥストラは「身体は大いなる理性である」といいます。
なぜならば、これまで精神とか理性とか呼ばれてきたものもまた、身体が何か行動する場合に用いる道具だからです。これまで精神とか理性とか呼ばれてきたものがいくら働こうとしても現実には何もできません。精神も理性も身体を持っていないからです。
現実において何かを実現させるのはこの身体です。したがって、これまで理性と呼ばれてきたものは、道具の1つとしての小さな理性であり、それを最終的にあつかう大きな理性はこの身体だというのです。
身体は理性であるというこの言い方はもちろん、身体こそ重視していることを示すための比喩的表現です。このような態度は、理性と意識を絶対化したことで身体をないがしろにしてきた近代の観念的な哲学、特に理性こそすべてであるかのようにみなして、道徳的行為すら理性の命令にしたがうようにと述べたカントの哲学への反旗なのです。
この、身体こそ根源だというのが、ニーチェの哲学を建てている太い柱です。ニーチェにとって精神だの理性だのといったものは、あとからひねり出された形のさだまらない観念のたぐいにすぎません。一方、身体こそ、ありありとした現実の生としてここにあるのです。
「きみのもろもろの思想や感情の背後に……中略……1人の強大な命令者、1人の知られざる賢者が立っている
──この者が自己と呼ばれる。きみの身体のなかに彼は住んでいる。彼はきみの身体なのだ」(吉川訳以下同)
「そして、この身体は大地の意味について話すのだ」
この場合、身体と「大地」は同義語です。なぜなら、あらゆるものがそこから生まれ育つからです。そしてまた、観念ではなく、現実だからです。したがって、身体も大地もなくして現実の生はありえないのです。
ただし、ふつうの人の身体もそのままでは大地のようなものだというわけではありません。なぜならば、ふつうの人は神や精神や理性や霊のほうが高級だとして、身体をないがしろにしているからです。ツァラトゥストラの次の言葉はそういう意味です。
「あくまで大地に忠実であれ、そして、きみたちにもろもろの超地上的な希望について話す者たちの言葉を信ずるな!」