近代哲学の父による「真理を見いだす」方法

17世紀当時の学問の慣習として論文はラテン語で書くのが一般的でしたが、デカルトは広く読んでもらうためにフランス語で書くようにしました。その全500頁以上になる論文の序文が『方法序説』です。

文章は平易なエッセイ風であり、自分が今まで学んだ学問だけではあきたらず、もっと確実で新しい思考の方法を求める自分の姿勢をはっきりさせ、そしてついにそれまでの哲学観念や学説にまったく依存しない規則などが述べられます。

その規則とは次の4つです。明証性、分析、総合、枚挙。これはデカルトの専門分野である幾何学を哲学の思考に応用したものです。明証性とは、真であると自分が認識したものでない限り、真として受け入れないということです。そうしないと、つい速断してみたり、先入観にまどわされたりしてしまうからです。

疑いようもない「真」は「考える私」

自分で決めたその規則にしたがってデカルトは何が本当に確実なものであるかを考え、結論を出しました。それがあの有名なフレーズ「われ考える、ゆえにわれあり(ラテン語で、コギト・エルゴ・スム)」でした。

この「われ考える、ゆえにわれあり」の論理は次のようなことです。自分が見たこと、経験したことはいくら確かに思われることであっても、不確かである可能性がある。自分の知覚など、そのすべては錯覚かもしれない。ひょっとしたら、現実のすべてが夢である可能性すらある。そんなふうに何もかもが疑いえる。

しかし、たった1つ、疑いようもないことが残っている。

その疑いようもないこととは、この自分がここで考えている、という事実です。だから、自分の実在こそ確かだと明証される、それこそ真理だとデカルトはいうのです。

ただ、デカルトのこの考え方には奇妙なところがあり、それは、考える私ではなく、思考だけが疑いえないものではないか、とは考えなかったということです。

ちなみにデカルトが「考える」というとき、問題についてのまとまった思考のことばかりではなく、あらゆる心の動きをも含めた広い意味になっています。

そのように考えたため、いわゆる「デカルト的二元論」というものが出てくることになります。その二元論とは、この世には精神のような非物体的実在と肉体のような物体的実在の2つがあるというものです。人間はこの2つがうまく合わさったものだというのです。しかし、精神が人の内部にあって肉体を操縦しているというのではなく、精神と肉体が脳の下部にある松果腺(現代医学でいう松果体のこと)で統合されているというのです。

ここから、哲学の新しい問題、心と体はどのようにつながっているのかという心身問題が生まれました。