国内外問わず多くの人に愛される「江戸前鮨」の世界。訪日外国人がお鮨屋さんに与えた影響は大きく、「かつての鮨屋を知る客には窮屈に感じられるかも」と、鮨評論界の第一人者であり、著述家の早川光氏はいいます。早川氏の著書『新時代の江戸前鮨がわかる本 訪れるべき本当の名店』より、具体的にどのような変化が訪れたのかを見ていきましょう。
「おまかせ」の“時価”提供の時代が終焉したワケ
おまかせのコースメニュー化は、いい意味でも悪い意味でもそれまでの江戸前鮨を大きく変えました。
まずおまかせが“時価”ではなくなりました。不思議に思う方もいるでしょうが、それまでのおまかせは食べたその日によって値段が違う“時価”だったのです。
魚の仕入れ値は毎日変わります。マグロやウニのように市場の競りによって価格が決められる鮨だねは特に上下が激しく、不漁や品薄の時、そして年末年始には高騰したりします。鮨屋に通い慣れた客はそのへんの事情を理解しているので、ずっと時価であることを容認してきました。
それが今はすっかり明朗会計になっています。どの店もおまかせを定価にしていますし、電話予約の時に「おまかせはいくらですか?」と尋ねればきちんと答えてくれます。かつてのような曖昧さはなく、食べている途中で「勘定はいくらなんだろう?」とびくびくすることはなくなりました。
これにも訪日外国人が増えたことが関係しています。外国人にとってコースメニューのはずの“おまかせ”が時価というのは理解しにくいため、はっきりとした料金を提示する必要が出てきたのです。
もうひとつはインターネット予約の普及の影響です。客と店が直接会話することがないインターネットの場合、トラブル防止のため実際に店に支払う金額を客に伝えるのがひとつのルールだからです。
銀座の高級店などは“時価”の慣習をずっと続けてきたので、料金を明示することに戸惑いもあったのではないかと思います。一部の高級店にとって、料金の曖昧さは京都のお座敷遊びのように一種の幻想を生み、一見客を遠ざけ常連客を守ってきたという面があるからです。それでも外国人の客がカウンターの2割、3割を占めるようになると、さすがに受け入れざるを得なくなります。
結果として常連客が優遇されることもなくなりました。今は常連客も一見客も一律に同じコースメニューが出てきます。もしかすると常連には脂ののった部位を出すといった程度の違いはあるかもしれませんが、同じメニューで食べているのに隣の席と明らかな差があればすぐに苦情が来ます。
そういう意味では、初めての客や経験の少ない客にとって、江戸前鮨の高級店はかつてのような“怖い”場所ではなくなりつつあります。
お好みで注文できる店が減った
高級店が怖くなくなったのは多くの客にとって歓迎すべきことです。でも古くからの客にとっては困った面もあります。それは、従来のように“お好み”で注文できる店が減ったということです。
お好みもおまかせと同様、高級店では時価というのが普通でした。たとえばマグロの大トロなら1貫千円とか2千円とか基準になる値段は決めていても、その日の相場によって上下するのが当たり前でした。
それでもおまかせが定価になった以上、お好みだけ時価にしておくというわけにはいきません。かといって料金表を作るというわけにもいかないので、最近ではお好みというシステムそのものをやめてしまう鮨屋が増えています。
コースメニュー化したおまかせの場合、仕入れる魚の種類と数はあらかじめ決まっています。それに対してお好みはその日にどんな注文があるかわからないので、いろんな種類の魚を用意しなくてはなりません。つまりお好みの方が歩留まりが悪く利益率も低い。思いきってお好みをやめてしまう方が合理的なのです。
客の気持ちとしては、おまかせで10貫の握りを食べたとしても、マグロをもう1貫おかわりしたいとか、別の種類の貝も食べてみたいとか、最後はかんぴょう巻でシメたいとか思うのは普通のことだと思うのですが、今はそういう細かい注文には対応できないという店が増えています。まして「マグロのトロだけ5貫食べたい」といった昔の常連客のわがままな注文は、もはや不可能に近いと言えます。
客が店から出されるものを甘んじて食べるしかない。そういう今の流れは、かつての鮨屋を知る客には窮屈に感じられるかもしれません。
早川 光
著述家