中世ヨーロッパから現代のアメリカに至る覇権の移り変わりは、金融の世界での主導権の推移とリンクしています。今回は田渕直也氏の著書『教養としての「金利」』から一部を抜粋し、金利が国力におよぼす影響を見ていきます。
小国・イギリスvsナポレオン率いるフランス…覇権争いの行方を左右した「資金調達力」

金利は覇権の変遷をも左右してきた

 

金利は、いうまでもなく金融活動の中核に位置する存在ですが、その影響はたんに金融活動の枠内にはとどまりません。ヨーロッパでは、16世紀にはスペイン、17~18世紀にはフランスが大国として覇権を握りそうになりましたが、それに対抗したのがオランダやイギリスといった金融先進国です。

 

スペインやフランスは国土が広く人口も多い大国でしたが、オランダはもとより、イギリスも当時は人口が少なく、規模でいうとスペインやフランスとはだいぶ差があったのです。それにもかかわらず、最終的にイギリスは、スペインそしてフランスを凌ぐ大きな力をもつようになり、大英帝国を築きました。

 

こうしたヨーロッパにおける覇権の推移に、金利が大きく影響したといわれています。

 

スペインやフランスは、大国であるがゆえに多くの戦争に関与し、その莫大な戦費を調達するために、国王が多くの銀行家から借金をしていました。ところが、借金の返済が苦しくなると、王たちは簡単にこれを踏み倒してしまいます。大国の王だからそれくらいは許されると考えていたのでしょう。

 

この踏み倒しが原因でいくつもの銀行家が破綻に追いやられたりするのですが、生き残った銀行家たちはいつ借金を踏み倒すかわからないスペイン王やフランス王への融資を渋り、融資する場合でも高い金利を課すようになっていくのです。

 

一方、当初は大国ではなかったイギリスは、1688年の名誉革命の後、金融先進国オランダの支援のもとで金融システムや財政制度を近代化しました。

 

これは財政革命と呼ばれていて、その後のイギリス躍進の原動力になったと考えられています。戦費を借金で調達しなければならなかったのはイギリスも同じでしたが、イギリスでは名誉革命で議会が政治的な主権を握るようになるとともに、徴税権を裏付けとして国の借金の返済にも責任をもつようになったのです。

 

こうして生まれたのが、国が発行する国債という制度です。

 

王の借金ではなく、国家が責任をもって返済する借金に変わったということです。実際にイギリスは、返済が苦しくなっても、なんとかやりくりして借金を返済し続けます。

 

その結果、銀行家や投資家の信頼を得たイギリスの支払う金利は、その水準が大きく下がっていきます。名誉革命以前、イギリスは借金に対して平均10%超の金利を払っていました。それがフランスと絶え間なく戦争をしていた18世紀には、そのおよそ半分くらいにまで支払金利を引き下げることができたのです。

 

イギリスが世界屈指の海軍力を整備できたのも、大国フランスに対抗し続けることができたのも、最終的に起きたナポレオンとの苦しい戦争を戦い抜けたのも、この資金調達力があったればこそです。

 

逆に、少し前のスペインも、その後のフランスも、金利負担が次第に重くなり、やがて必要なときに必要な資金を調達できなくなっていったことが大きく足を引っ張り、最終的に勝利を掴むことはできませんでした。

 

なお、オランダは陸続きのフランスとの攻防に疲れて、これら一連の争いから脱落していくのですが、それでもこの小さな国が一時的にせよ、グローバル経済を先導する国家として繁栄を極めたのは、やはり金融の力が要因のひとつだったと考えられています。

 

ちなみに金利とは直接関係がありませんが、1602年に設立されたオランダ東インド会社は、世界最初の株式会社といわれています。実はオランダこそが現代資本主義の生みの親であり、先ほど触れたように、イギリスが財政革命でお手本にするような金融最先進国だったのです。

 

このオランダからイギリス、やがてアメリカへと続いていくグローバル経済における主導権の推移は、そっくりそのまま金融の世界における主導権の推移に重なっています。