・和久井健太(わくい・けんた)
京都にある洛中信用金庫に就職。入社三年目を迎え、北大路支店の営業部に配属されるも、引っ込み思案がわざわいして、苦戦。最近自分がこの仕事に向いているのか悩んでいる。
「おい、何してる、名刺出しなさい。口座開いて預金した上で、融資も頼むっておっしゃってんだ」
和久井は我に返って名刺を出した。
「ああ、洛信さんかいな」
女主人は名刺を見て言った。名前は知っているらしい。和久井は、ほっとした。
「看板は、よお見かけるわね」
「よろしくお願いします」
と言ったものの、融資はかなり厳しいのではないか。担保となるものがなかった場合、六千万も出せないにちがいない。
「でさ、お姉さんは昔旦那と住んでたところに住んでるの?」
「そうよ。旦那のほうが出ていっちゃって、女と暮らしてるからね」
「そうなんだ。一戸建て? それともマンション?」
「一戸建て。だからひとりだと寂しくてね。掃除も大変やし」
「地面はどのくらいあるの」
「五〇平米くらいやろか」
「だったら、これから建てる物件の一部屋をご自分用にちょいと広くして、そこに住んじゃえばいいじゃないですか」
「ああ、そやねえ」
「お子さんは?」
「一人娘」
「ほお、京都にお住まい?」
女主人はうなずいた。
「京都で生まれたさかい、京都以外では、よお住まへんのよ」
「なるほど。離婚するに当たっては、お嬢さんは何か言ってた?」
「娘はもうカンカン。父親にも相手の女にも」
「まあ、女の子というのはそういうものだね。こういう場合は母親に同情的になるのがフツーだから」
「なんや、息子やったらなに、お父ちゃん、さすがやな若い女とうまいことやって、隅に置けへんな、男冥利に尽きるわ、みたいなこと言うたりするの?」
「いやいや、別にそんなことは……ははは、いや、もちろん男の俺だってヒドいと思いますよ。いや、ヒドい。人間じゃないね、こんないい女をほったらかして、若い女と、うん、羨ましい・・・じゃなくて、けしからん」
女主人の顔が険しくなっている。
「看護師も、みなみ病院も、どちらもワンダフルだ」
「まあまあ、で、話を戻すとね、お嬢さんと一緒に住めばどうですか。お嬢さんのお仕事は?」
「看護師」
オヤジは指をぱちんと鳴らした。
乾いた、いい音だった。
「いい。とてもいい。どこにお勤め?」
「京都みなみ病院よ」
「素晴らしい」
「何が?」
「看護師も、みなみ病院も、どちらもワンダフルだ。とにかく、骨でも折ったらよろしくお願いします。じゃあ、そろそろ僕たちはこれで」
オヤジはいきなり腰を上げた。いつの間にか、「僕たち」とひとくくりにされているのが気になる。
「すぐにまたお会いすることになると思いますが」
オヤジは和久井の腕を取って引っ立てた。そして自分は、さっさと店の外に出た。女主人は「はーい、お勘定」と言って、テーブルの上のレシートを取ってレジの前に立つと、「パスタ定食ふたーつ」と打ちはじめた。
和久井はまんまと、ふたり分の食事代を払わされた。これって食い逃げ?
一瞬そう思った。しかし、それにしては凝りすぎている。
財布を尻のポケットにねじ込みながら店を出ると、オヤジは逃げもせず、ニヤニヤ笑いながら立っていた。
「しかし、まずかったな」
同意を求めるようにオヤジはまた笑った。
「食えたもんじゃないぞ、ありゃあ」
確かにまずかったが、その共通体験をもとに仲間にされるのはさっきから危険な気がしていた。
「どこか、そこらへんのそば屋で食い直そうや」
そう言って、オヤジは先を歩きだした。