・和久井健太(わくい・けんた)
京都にある洛中信用金庫に就職。入社三年目を迎え、北大路支店の営業部に配属されるも、引っ込み思案がわざわいして、苦戦。最近自分がこの仕事に向いているのか悩んでいる。
・桜四十郎(さくら・しじゅうろう)
偶然入った喫茶店で出会った職業、住所、年齢ともに不定の謎の中年男性。なぜか金融関連の事情に詳しく、和久井にいろいろとアドバイスをするように。
「桜さんはどうなんですか」
「何が?」
「モテましたか」
仕事と異性関係が同根だという持論なら、女性関係を追及したら、桜さんの仕事が何かわかるかもしれない。和久井はとりとめもなく、そう思った。
「そうね、俺はそこそこモテたよ」
「言いますね」
「おうよ」
「やっぱりモテたのは仕事ができたからですか」
「うーん、まあなあ、仕事はできるばかりが能じゃないんだよ」
あれ、と和久井は思った。急に歯切れが悪くなったぞ。
「なんですか、それは」
「仕事はできないほうがいいこともある、大局的にはな」
「できないほうがいい仕事って、どういうものですか」
「お前『レオン』って見たか」
「映画ですか。ええ見ましたよ」
「あいつが有能なばっかりに、人がたくさん死んだろ?」
「なに言ってんですか、あれは殺し屋じゃないですか。それに主人公が優秀だから少女は生き延びられたんです」
「あ、そうか」
桜さんは、あっさり納得した。
「じゃあ、アインシュタインたちがあまりに優秀だったから、マンハッタン計画が進行し、原爆が投下されて広島長崎で多くの人が死ぬことになった。これはどうだ?」
「それ、桜さんに全然関係ないじゃないですか」
「たとえ話だよ」
「でも、原子力の平和利用って道も開けてるわけですよね」
「そんなこと言ってるうちに、福島でどえらい事故が起きたぞ。つまり、知恵ってのは悪知恵と背中合わせってことなんだよ」
わからないので、からめ手で攻めることにした。
「桜さん、モテたって言ってましたけど、モテたって過去形でしたよね。今はどうなんですか」
「確かに最近は……ご無沙汰だな」
「今は独身なんですか」
「港々に女あり」
「なんですか、それは」
「映画のタイトルだ。ハワード・ホークスって名匠の。お前、映画見ないのかよ」
「あんまり見ませんねえ」
「駄目だなあ」
どうやら桜さんは映画好きらしい。
「け、くだらねえ。そんなもの見ても時間の無駄だぞ」
「なんか映画って、勿体つけて結構な金取る割にはつまんないものが多い気がするんですけど」
「そりゃ、お前の選択が悪いんだ、俺が選んでやるから、それを見てみろ。面倒だが、俺も一緒に見て解説してやる」
面倒などと言っているが、自分が見たい映画を見せて映画代を払わせる魂胆らしい。
「自転車転がすのもいいが、映画とか絵画とか文学とか、若いうちに美的感受性を養っておいたほうがいいぞ。ちょっともう手遅れかもしれんがな」
「でもテレビでドラマは見ますよ」
「け、くだらねえ。そんなもの見ても時間の無駄だぞ」
テレビドラマは嫌いらしい。
「そうですか、僕は好きですね」
「なんかいいのあるのか」
「そりゃあ、やっぱり『花の金融マン 松浦秀樹(まつうらひでき)』ですね」
『花の金融マン 松浦秀樹』、通称ハナマツは、大手都市銀に勤務経験を持つ水村洋平の小説を原作とし、水村自身が自ら脚本を執筆する連続テレビドラマだ。
「あれはいい!」
桜さんは意外なことを言った。
「いいんですか」
「おう、俺も大好きだ。もっとも俺がやっかいになっていた川沿いの家にはテレビを持っている奴が少ないんでな、見るのに苦労してる」
段ボールハウスの住人にテレビを持っている者がいることのほうが驚きである。
「俺、ここ数回は録画してますよ。見ますか?」
「え、本当か、それはありがたい。見よう見よう」
デザートにガリガリ君を食べてから、自室の六畳間に桜さんと移動した。敷きっぱなしの布団を押し入れに放り込んで、録画用のハードディスクに保存したデータを再生し『花の金融マン 松浦秀樹』過去二回分を一緒に見た。
元銀行員が原作と脚本を手がけただけあって、銀行の描写は詳細で生々しく、そして大手都市銀を舞台としているから、陰謀も悪だくみもやたらとでかい。これが『ハナマツ』の魅力のひとつである。ダイナミックに展開する激動のドラマは、和久井が生きている信用金庫の世界とはスケールがちがう。そして文句なしに面白い。このドラマを見ていない金融マンはいないと言っても過言ではないほどだ。
いや金融マンだけでなく、松浦秀樹が社内の人間関係や業界のしがらみや因習に煩わされながらも、これに立ち向かっていく姿は、業界を超えてすべてのサラリーマンの心をとらえているらしく、大変な高視聴率をキープしている。
主人公松浦秀樹が決め台詞として吐く「そのお言葉、倍にしてお返しさせていただきます」は、流行語大賞にノミネートされること間違いなしと噂されていた。
松浦がふと寂しげな表情を浮かべて「オレも薄汚れた金貸しになっちまったもんだぜ」とつぶやくセリフに、
“タラー、タラリラリント、タラー”
という哀愁のこもったメロディーがかぶさり、さらに去っていく彼の背中に、中原中也の詩をもじったスーパーインポーズが重なるときに、感動はクライマックスに達する。
汚れちまった悲しみに
今日も小銭のふりつむる
汚れちまった悲しみは
たとえば狐の皮算用
「いいよなー、松浦秀樹、サイコーだね」
桜さんは感に堪えないというように頭を振っている。理論派だと思ったが案外こういう絵空事も好きなんだな、と思って和久井は安心した。
「いいっすねえ、松浦秀樹。かっこいい。俺も一度は言ってみたいよなあ。『そのお言葉、倍にしてお返しさせていただきます』」