・和久井健太(わくい・けんた)
京都にある洛中信用金庫に就職。入社三年目を迎え、北大路支店の営業部に配属されるも、引っ込み思案がわざわいして、苦戦。最近自分がこの仕事に向いているのか悩んでいる。
・桜四十郎(さくら・しじゅうろう)
偶然入った喫茶店で出会った職業、住所、年齢ともに不定の謎の中年男性。なぜか金融関連の事情に詳しく、和久井にいろいろとアドバイスをするように。
「なんだこりゃ」
桜さんの声で妄想が破れ、和久井はまたわかば寮の六畳間に戻ってきた。
ふと見ると、和久井が畳の上に積み上げている本の山から一冊引き抜いて、パラパラとページをめくっている。それはMBA(経営学修士)の参考書だった。和久井は転職も考えて、資格を取ろうと、空いた時間を見つけては勉強しているのだった。もっとも、なかなか前には進まないが。
いきなり桜さんは、その『ビジネスマンのためのMBA入門 ジョン・スチュアート・御手洗著』をゴミ箱に放り込んだ。
「何するんですか」
「こういう勉強は、あと二年やみくもに働いてからでも遅くないさ」
「ちょっと、待ってくださいよ。俺だって夢があるんです」
「どんな夢だ」
和久井は言いよどんだ。俺の夢っていったい何だろう。考えてみたが、わからない。だから、こう言ってみた。
「とにかく、このままじゃ終わりたくないんです」
ほお、と感心したような顔を見せてから、桜さんはニヤニヤしはじめた。
「それに、学生時代に学んだことを風化させないためにも、勉強は続けたほうがいいと思うんです」
わかった、と桜さんは言った。そして、
「だったら、ほかの参考書にしな」と意外な一言を付け加えた。
「え、どうしてですか」
「いまちょいと覗いたら、あの参考書、ポートフォリオの解説間違えてたぞ」
「そんなわけないでしょう」
「なぜそう思うんだ」
「このジョン・スチュアート・御手洗って人は、『報道チャンネル』で経済関連のレギュラー・コメンテーターを務めているんですよ」
「おお、それはヤバいな」
「松浦秀樹と同じで、ハーバード・ビジネス・スクールだって出てるんです」
「HBSだって? だったら、その経歴はガセだ」
和久井は思わず笑った。
いくら銀行業務に詳しいとはいえ、そこまで断言できるはずがない。
なかなかはったりが利いたオヤジだな、と思った。そんなところも面白い。見ると桜さんも笑っている。
「ちがいますよ、教えてほしいんです」
「桜さん」
「おうよ」
「ここに住みませんか」
「ここに、俺が?」
「ええ、この寮の住人、僕のほかはあの目黒先輩だけなんです。管理人も月に一度しか来ないので、親戚がたまたま泊まりに来ていると言って誤魔化すのは簡単だと思います。実際、東京の友人が京都見物するんで、宿代わりに泊まっていったことは何度かありますし」
桜さんはふーんと言っただけだった。
「何があったかは知りませんが、桜さんだって段ボールハウス暮らしが好きってわけでもないでしょう。もし、一緒に暮らしてくれたら、家賃はゼロで、家での飯代は僕がなんとかします」
「で、俺は炊事と掃除と洗濯をすればいいのか」
「ちがいますよ、教えてほしいんです」
「ほう、何を」
「いろいろです」
「映画とか」
「例えば映画も」
「モテる方法とか」
「それもいいですね」
「で、料理」
「桜さん、いつになったら金融業のことが出てくるんですか」
「ああ、それは教えてやれると思うね」
「よろしくお願いします」
和久井が垂れた頭を起こして前を見ると、桜さんは顎の無精ひげを撫でながらニヤニヤしていた。
こうして和久井と桜さんの共同生活が始まったのである。