(※写真はイメージです/PIXTA)
「ホテルに泊まって」なにが問題だったのか
「軽い気持ちの提案だったのですが、それが週末の団らんを奪う引き金になるとは……」
埼玉県内の住宅街にある一戸建てで、2歳年上の夫と暮らす幸子さん(73歳)。夫婦の年金収入は合わせて月約25万円で、穏やかな老後を過ごしていました。
都内に住む30代の長男家族(息子・妻・小学生と幼稚園と小学生の孫2人)は、車を持っていないので、電車で2時間ほどかけて、月に2回ペースで実家へやってきていました。いつも金曜の夜に到着し、日曜日まで寝泊まりして賑やかに過ごすのが恒例で、幸子さん夫婦も孫たちのために食事や寝具を整えて迎え入れるのを心から楽しみにしていたといいます。
転機となったのは、築45年を超える自宅の老朽化でした。ある日、夫が浴室で足を滑らせて腰を強打。幸い大事には至らなかったものの、今後の安全を考慮し、浴室や廊下の段差解消、手すりの設置などを含めたバリアフリー改修を決断しました。かかった工事費は350万円。手を付けていなかった夫の退職金から捻出しました。
工事期間はおよそ1ヵ月半。資材が廊下や居室に運び込まれ、職人が出入りするため、とても人を泊められる状態ではありません。ちょうど次の帰省予定が近づいていたため、幸子さんは長男に電話をかけました。
「来週は工事で部屋が埃っぽいし、落ち着かないの。悪いけれど今月だけ近くのホテルにでも泊まってくれないかしら。宿泊代の半分は出すから」
幸子さんとしては、環境が整っていない実家で不自由をさせるよりは、という純粋な配慮からの提案でした。しかし、電話口の長男は少し間を置いたあと、思いのほか淡々とした声で答えました。
「わざわざホテルを取ってまで行く意味もないし、今回はやめておくよ」
長男のあっさりとした返事に幸子さんは少し拍子抜けしたものの、「工事が終わればまた来てくれる」と軽く考えていました。
ところが、リフォームが無事に完了し、「すっかり綺麗になったからいつでもおいで」と連絡を入れた翌月から、異変が始まります。
「今週末は子どもが友達と遊ぶ約束がある」「習い事の用事が入った」と、なにかしらの理由をつけて断られるようになったのです。月2回欠かさず続いていた金曜夜の帰省は完全に途絶え、半年が過ぎ、1年が経っても、長男家族が実家に泊まりに来ることは一度もありませんでした。
「あんなに通ってきていたのに、ホテルと言われたのを根に持っているのか」と苛立ちを募らせる夫。思い切って幸子さんが長男に真意を尋ねると、息子から返ってきたのは予想もしない本音でした。
「あのときホテルを提案されて、ふと立ち止まったんだよね。金曜の仕事終わりに子どもを連れて移動して、日曜の夜に慌ただしく戻る生活が、実は自分たちにとって結構な負担になっていたと気づいた。実家に行かない週末を過ごしてみたら、自宅の近くで家族だけで出かけたり、ゆっくり休んだりするほうが楽だし充実していたんだ。あの提案が、実家通いを見直すきっかけになった」
長男家族のSNSには、週末に都内の公園や近場のテーマパークを家族水入らずで楽しむ姿が頻繁に投稿されていました。「いつ来てもいいように」と買い置きしてあった孫たちのお菓子やジュースは、手つかずのまま賞味期限を迎えようとしています。
「ホテルに泊まって」という一言。それが、子世帯にとっての「実家通いという習慣」の終わりを告げるスイッチになってしまった現実に、幸子さん夫婦は取り残されたような深い静けさを噛み締めています。