退職金2,000万円を手にした60歳夫の決断

「退職金でローンを全部返そう」

直樹さんは迷いませんでしたが、智子さんは反対しました。

「金利は低いし、全部返さなくてもいいんじゃない? これから収入も減るんだから、現金を残しておいたほうが安心でしょ?」

当時、夫婦には退職金とは別に約700万円の預貯金があり、合わせて約2,700万円。1,400万円を返済にあてれば、残る金融資産は約1,300万円です。

智子さんは50代半ばから実母の通院や買い物を手伝い、子どもの独立後も思うようにパートを増やせずにいました。働くつもりでも、家族や自分の状況次第で収入を増やせないこともある。だからこそ、手元の現金を大きく減らすことに不安があったのです。

それでも直樹さんには計算がありました。

「1,300万円も残る。俺もまだ働くし、お前にもパート収入がある。ローンさえなくなれば、十分やっていけるだろ」

結局、智子さんが折れ、退職金から約1,400万円を出して住宅ローンを完済しました。

「借金がなくなった。これでやっとスッキリしたよ」

直樹さんは笑顔で、安心した様子だったといいます。

ところが、ここから夫婦の家計は少しずつ変わっていきました。

定年後、直樹さんの年収は約300万円に減少。智子さんのパート収入を合わせても、世帯収入は現役時代に比べて大幅に少なくなりました。住宅ローンはなくなったものの、食費や光熱費などの生活費が消えるわけではありません。さらに、築20年を超えた自宅では外壁塗装や給湯器の交換など、まとまった修繕費も必要になりました。

「ローンがなくなったから、生活は楽になると思っていたんです。でも、収入が減ると、毎月の生活費だけでも少しずつ預金が減っていきました」

そして3年後、直樹さんが不慮の事故で突然亡くなりました。63歳でした。