(※写真はイメージです/PIXTA)
元同期が突きつけた「逆ザヤ」の残酷な現実
退職から1週間後、ミチアキさんは元同僚のタナカさんと居酒屋で酒を飲みました。タナカさんはミチアキさんより一足先に退職後、かねてより取得していたFP(ファイナンシャル・プランナー)の資格を活かして独立しています。
ローンの完済を報告し、「これで一安心だよ」と笑うミチアキさんに対し、タナカさんは驚きの声を上げました。
「えー、全額繰上げしちゃったの? もったいない……。冷静に計算すれば、いますぐ返す必要なんてなかったのに」
水を差されたミチアキさんは、田中さんに理由を問います。
「いまの変動金利は0.85%上がったといっても、ミチアキの適用金利はせいぜい1.3%程度だろ? 一方で、いまその1,200万円を新NISAの成長投資枠や高配当株に回せば、年3〜4%程度の利回りを狙うのは難しくない。『借りる金利』より『増える利回り』のほうが高い状況なら、あえて返さずに運用し続けたほうが、トータルの資産は数百万円単位で増えていたはずだよ」
「それに」とタナカさんは続けます。「あと3年後に返済額が上がるといっても、増額幅を前回の1.25倍に抑える『125%ルール』がある。手元に1,200万円のキャッシュを残しておけば、増えた分の返済なんて運用の配当金だけでお釣りがきたのに」
タナカさんの助言に、ミチアキさんは「住宅ローンの繰上げ返済なんてしなきゃよかったのかも……」と一気に後悔が押し寄せてきました。
「安心」を買ったのか、「機会」を捨てたのか
タナカさんの指摘は、「損得勘定」におけるミチアキさんの不安要素を直撃するものでした。
もし、1,200万円を手元に残して運用していれば。もし、金利上昇分だけをその都度、運用益で相殺していれば。手元にはいつでも動かせる1,200万円以上の現金があり、なおかつ資産も増えていたかもしれない――。
「再就職先での月給は現役時代より下がりますし、いつまで働けるかもわからない。急な病気や家の修繕が必要になったとき、もう私には頼れる『まとまった現金』がありません。金利上昇の恐怖に負けて、キャッシュを捨ててしまった……」
ミチアキさんは、夜な夜な住宅ローンのシミュレーションサイトを見返しては、溜息をつく日々を送ることになったのです。
退職金を住宅ローン返済に充てるのは、アリかナシか
ミチアキさんの後悔とタナカさんの指摘。この両者の意見には、どちらが絶対的に正しいという答えはありません。特に、以下の2つの論点が浮かび上がります。
経済的合理性は「タナカさん」に軍配
低金利時代が長く続いた日本では、住宅ローンという「低コストな借り入れ」を最大限利用し、浮いた現金をより高い利回りの資産で運用する「レバレッジ」の考え方が、資産形成の定石とされてきました。特にインフレ局面では、現金の価値が目減りし、借金の価値も相対的に下がるため、急いで返すことは経済的な機会損失となる可能性が高いでしょう。
精神的安定性は「ミチアキさん」の防衛策
一方で、タナカさんの理論は「運用が右肩上がりであること」が前提です。65歳を超えてから1,200万円もの大金を投資に回し、もし暴落に直面した場合、ミチアキさんのメンタルは耐えられたでしょうか。「借金がない」という精神的解放感は、定年後の健康寿命に好影響を与えるという説もあります。再雇用の不安定な立場で、毎月の固定費を最小限に抑えたことは、リスク回避としては決して間違いではないでしょう。
繰上げ返済の是非は、通帳の数字だけで決まるものではありません。大切なのは、「キャッシュの希少性」を知ること。住宅ローンは、個人が銀行から借りられる「最も金利の低い資金」です。一度返済してしまったら、同じ条件で借り直すことは二度とできません。
ミチアキさんが取るべきだったのは、全額返済でも維持でもなく、「半分だけ返す、あるいは数年分の返済増額分を想定して一部だけ手元に残す」というような、リスクとリターンの折衷案だったのかもしれません。
5年後の返済額アップを前に、多くの人が選択を迫られます。私たちは「利息を減らすこと」に執着するあまり、「現金を失うリスク」を軽視していないか。ミチアキさんの事例は、流動性の高い資産の今後の価値を問いかけています。
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