(※写真はイメージです/PIXTA)
玄関先で途絶えた、30年間の会話
「あの人との結婚生活よりも、あの人がいなくなってからの生活のほうが長くなってしまいました」
結婚生活を振り返るのは、千葉県内で一人暮らしをする加藤節子さん(82歳・仮名)。さかのぼること30年前に、夫の正雄さん(享年54歳・仮名)を亡くしました。当時、正雄さんは地元の建設会社で管理職を務めていたといいます。
それはある木曜日の朝のこと。2人は些細なことで口論になりました。前日の夜、正雄さんが飲み会から帰宅した際、連絡を入れなかったことが原因でした。節子さんは朝食の準備をしながら、正雄さんに対して冷淡な態度をとってしまいます。
「夫は『悪かったよ』と何度か謝ってきましたが、私は許す気になれず、ずっと無視を決め込んでいました。食事中もテレビの音だけが響いているような状態でした」
午前8時、正雄さんは出勤のためにスーツに着替え、玄関に向かいました。節子さんはキッチンで食器を洗っており、正雄さんの姿を見ようとはしません。正雄さんは玄関で一度足を止め、キッチンにいる節子さんに向かって「それじゃあ、いってくるよ」と声をかけました。
「私は手を止めず、背を向けたまま何も答えませんでした。夫は少し間を置いてから、もう一度『いってきます』と言いました。それでも私は、水道の水の音にかき消されるような声で『はいはい』とだけ返し、顔を上げませんでした。結局、最後まで夫の目を見ることはありませんでした」
正雄さんが家を出てから約1時間後、節子さんは掃除機をかけようと2階へ上がりました。しかし、その日の昼過ぎ、正雄さんの会社から「正雄さんが無断欠勤している」と連絡が入ります。不審に思った節子さんが家中を捜すと、寝室のクローゼットの前で、着替えの途中のような姿勢で倒れている正雄さんを見つけました。
「警察と救急が到着しましたが、死因は急性心不全でした。一度玄関を出たはずの夫は、忘れ物を取りに戻ったのか、あるいは体調に異変を感じて戻ったのか、寝室でそのまま息を引き取っていたのです。私は夫が家に戻っていたことにも、そこで倒れたことにも、まったく気づきませんでした」
正雄さんの遺体の傍らには、仕事用のカバンが落ちていたといいます。
「警察の方から死亡推定時刻を聞かされたとき、自分は何をしていたかと考えました。私は夫が倒れていることも知らず、不機嫌なまま1階で家事をしていました。最後にかけてくれた『いってきます』に対して、なぜ顔を見て、普通に『いってらっしゃい』と言えなかったのか――ずっと30年間、思い続けてきたことです」
節子さんは現在、正雄さんの退職金と遺族年金で生活していますが、正雄さんと過ごした自宅で一人、当時の状況を反芻する日々を送っています。
