懸垂が1回もできない!

体力の衰えを残酷なまでに突きつけられた経験がある。あまりにもショッキングなことだったので、忘れられない。

あれはたぶん60代半ばのときだったと思うが、わが町の川沿いに長い土手がつづいている。そこに小さな区画があり、鉄棒や簡単な運動器具がある。ここはわりと自転車で通る道で、あるとき、どれひさしぶりに懸垂でもやってみるかと、鉄棒に飛びついたのである。すくなくとも2、3回はいくだろうという心づもりだった。

愕然とした。1回もできなかったのだ。それどころか、1センチも体がもち上がらないのだ。びくともしない。え? うそだろ、と思った。これはなんだ? と思い、腕に満身の力を込めたが、できないものはできない。

年を取ると筋肉がなくなるというが、こんなに衰えていたのか。昔から懸垂は得意ではなかったが、それでも6、7回はできた。筋肉が衰えると、こんなことになるのだ。腕立て伏せもおなじだった。これもまた1回もできなくなっていた。60歳になるまでは、腕立て20回、腹筋は50回やっていたのだ。

自分では年寄りになった感覚はなかったが、こうして体が、おまえはこんなにじいさんになってるのだよ、と思い知らせてくる。記憶のなかの自由に動いた体と、現実の不自由になった体のギャップが如実である。体は分裂する。精神は分裂しない。

体は表面も内部も劣化している。表面は見ればわかる。顔の皮膚はたるみ、シミがでる。体もおなじである。衣服を脱いでみれば、しわしわである。たるんでいる。めりはりがなくなっている。

体の動きがおかしい。これがおれの体か、と思う。まいったね。ただ、懸垂をせず、腕立てもせず、走ることもなければ、とりあえずこの無様な現実を忘れることはできる。