老人は汚い、は禁句か

五木寛之が「体は枯れても、心は枯れない。この不自然な矛盾が、高齢者の生き方を厄介なものにするのである」と書いていた。

どう「厄介な」生き方になるのか、五木はとくに書いてはいない。だが、老人になると、身体が衰える分、「世俗的な欲望は高まってくるのではないか」といい、その結果、例として「世にいうヒヒ爺」になることを挙げている。

たしかにそういうことはある。「ヒヒ爺」になるか、田原総一朗のような「おれは偉いんだぞじじい」になるか、である。

問題は、老人がそれを「厄介な」ことと考えていないことである。それどころか、老人であることを忘れて、調子に乗っているフシがある。客観視できず、「おれはおれ」意識でやっているのだ。世間と心がまったくかみ合っていない。本人は「おれはおれ」と思っても、世間ではただのじいさん、ということがわかっていない。

そして世間でもいわないし、老人本人も避けているが、五木のいう「体は枯れて」とは、体が弱ったり衰えたりすることはその通りだが、それ以上に、はっきりいって体が汚くなる、ということをいっている。いや、もし五木本人がそこまでいってないよ、というのなら、わたしがそういいたがっている。

老人になると、体も、顔も(皮膚も)、いやおうなく汚くなる。汚くなるというのがいいすぎなら、年を取れば取るほど、男も女も容色が衰える。まぎれもない事実だ。だから女性は抗うのではないか。

ひとりでいるとき「老人」を意識はしないが、ひとりで鏡を見るとき、我々が見るのは「老人」以外の何物でもない。こんな事実は社会的にいわないことになっているのか。そんなあたりまえのこと、いってどうする、ということか。

「ルッキズム」(外見重視主義)はいけない、ということになっている。だがこれがウソバレバレのタテマエ(ポリティカル・コレクトネス)であることは、みんなわかっている。

マスコミも、スポーツ界も、芸能界も、普通の世間も、世の中はすべて、それで動いているではないか。