個性を重んじる「現代性」の影響もあいまって、老人であることを客観視できず、「おれはおれ」意識で行動する老人が増えている――。自らもシニア世代の勢古浩爾氏(執筆当時77歳)の現代の老人に対する考察とは? 著書『おれは老人? 平成・令和の“新じいさん”出現!』(清流出版)の一部を抜粋・再編集してご紹介しよう。
自意識はバカである
しかし「おれはおれ」の「おれ」は、当然ながら、一種類ではない。人の数だけ「おれ」はあるのだ。セクハラ老人は、おれはまだ男としていけてる年だ、と思いたいのだろう。見た目年齢も運動能力も、まだ十分だ。人間の感情はバカだから、いくつになっても自惚れがある。自分はいけてる、と思いたいらしいのだ。
わたしは若い頃は、自意識が強かったと思う。しかしそれは、目立ちたがりな、おれがおれがの自我意識ではない。他人にどう見えるか、どう見られてるかという意識が強く、自縄自縛になっていた嫌いがある。そういう自分が好きではなかった。自我はおそらく人よりも弱く、したがって自我に振り回されることはなかった。目立つことは極端に排除した。自意識で自我意識を抑制することができた。
昨夏、東京都知事選に立候補した田母神俊雄(1948年生まれ)が選挙期間中、売り文句だったのだろう、しきりに「私は本当に良い人なんです」としゃべっていた。おそらく「良い人」なんだろうと思う。だが、そんなことをいえば、わたしもまたそういうことができる。しかし口が裂けてもそうはいえない。そもそも立候補するという時点で、かれとわたしとは決定的にちがう。
そもそも、世間の多くの人にわたしは追いついていないのだ。自我意識の弱い人間なんて、現代では社会人失格でしょう。
もっと自由闊達に生きられたなら、どんなに楽なことかと考えたこともある。だが三つ子の魂百まで、である。そう簡単には変えられない。それがいまにいたるまで、わたしの内部に残存している「昔」である。もう若い頃のような自意識の塊りは消滅しているが、まだいくらかは残っている。
自意識はバカである。なんのプラスにもならない。それとも、なにか自分の役に立っているのか。七十七歳にもなって、いけてるもなにもないのである。顔にシミが出、髪はなくなり、筋肉は落ち、歩く姿はヒョロヒョロなのだ。
だがバカな自意識がそんな自分を、自分で思うほどひどくないんじゃないか、まだ大丈夫じゃないか、と思っているのである。バカだねえ。当然、こんなバカな自意識はこっぴどいしっぺ返しにあうことになる。世間はそんなバカなじいさんを許すわけがないのである。
現代の新じいさんは、独特の風体をつくりだした。それと同時に、新しい考えを打ち出したかというとそれはない。「おれ」を甘やかしただけである。
いや、これも「甘やかし」のひとつだが、世間のくびきを脱して、好きに生きる、第二の人生だからな、と考えたことは新しかった。これは自分で考え出した考えのように見える。しかし、それは時代が押し上げた考えだったのである。自分の手柄のように、いばることではない。
勢古 浩爾