日本を形づくる中枢都市のひとつ・「大阪」。地名を聞いて災害を連想する人は少ないかもしれませんが、地理や歴史からみると大阪にも危険な場所があります。実は大阪は過去なんども水害に見舞われていた「水害の街」でもあるのです。今回は、『47都道府県の怖い地理大全』(彩図社)より一部を抜粋し、「大阪」の意外な一面と、人命を奪う水害の恐ろしさについて紹介します。
【地名の由来】大阪・放出(はなてん)が示唆する“天下の台所”に隠された「もうひとつの歴史」
知られざる“水害の街”としての「大阪」
かつて大阪平野は一面が海だった。陸地が形成された後は、そのほとんどが湿地帯となった。
戦国時代末期に豊臣秀吉が城下町を整備し、江戸時代には新田開発が行われたが、湿地を形作っていた河川は縦横無尽に流れ、水害を多発させていた。そんな災害の記憶が、大阪の地名には留められている。その一つが放出(はなてん)だ。
放出は、大阪市の鶴見区と城東区にまたがる地域にある。地名の由来は諸説ある。
熱田神宮の秘宝の剣を盗んだ新羅の僧侶が逃亡中、この地で剣を「放り出した」という説や、家畜の放牧場だったという説が有名だが、有力視されているのは、「水の放出場所」と考える説である。
かつて放出とその周辺は、寝屋川、長瀬川、旧大和川などの合流地点でもあった。水が集中しやすいため、朝廷は水を樋で旧淀川(現大川)へと定期的に放っていたという。当初は「はなちてん」と呼ばれていたが、徐々に訛って「はなてん」になったらしい。
放出は、洪水多発地でもあった。地域の大半が低湿地帯で河川も多く、豪雨で氾濫が起きやすかったのだ。
享和2(1802)年には淀川で大規模な決壊が起こり、旧放出村を含む237カ村が浸水している。1885年6月にも暴風雨の影響で、淀川は再び氾濫。翌月には寝屋川の堤防も決壊し、放出を含む淀川以東が水浸しとなった。浸水被害は最大4メートル、被災世帯は大阪府全体の世帯数の約20%にあたる7万2509戸であった。
昭和に入っても、放出は水害に襲われている。1972年と1976年には寝屋川が氾濫して、床上浸水が発生したという。1969年には水害防止のために第二寝屋川が掘削され、堤防設備が完備されたが、現在でもJR放出駅の周辺は低地である。水害リスクはいまも低くない。