ささやかで尊い「幸せな日常」が終わりを告げた日

その朝も、いつもと変わらない時間が流れていました。いつもの席で新聞を読む健太さんに麻美さんが声をかけた、そのときでした。

――今朝のスープ、味どうだった? 塩辛かっ……。

麻美さんは急に呂律が回らなくなり、言葉がうまく出てこなくなりました。

「ん? 寝ぼけてるのか?」

健太さんは冗談交じりに返したものの、表情の異変に気づき、慌てて救急車を呼びました。

麻美さんの診断は脳梗塞。一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、介助とリハビリが必要になりました。

ほんのついさっきまで元気だった麻美さんが、いまは病室のベッドで横たわっています。その現実に、健太さんはただ呆然としながらつぶやきました。

「どうして……あんなに元気だったのに……」

入院費、介護費、住宅ローン…貯蓄はついに残り100万円

妻が脳梗塞で倒れ、健太さんの生活は一変しました。麻美さんは退院後も右半身に麻痺が残り、毎日の介助が欠かせません。

訪問リハビリやデイサービス、介護用ベッドのレンタルなど、介護保険を使っても自己負担は避けられず、出費はかさむ一方です。入院費も重なり、貯蓄は残り100万円ほどとなってしまいました。年金収入25万円のうち、こうした介護費用と13万円の住宅ローンを払うと、毎月数万円の赤字が続きました。

そんなある日、買い物に出かけた帰り、健太さんは道端で知人にバッタリ。「介護で懐が大変だ」という話をしたところ、知人は次のように言いました。

「そうか、しんどいな。うちの母さんの介護は、トータルで500万円近くかかったよ」

「え?」

健太さんは愕然としました。

ただでさえ赤字なのに、あと400万円はかかるってことか……?

子どもたちに頼ることも考えましたが、共働きで子育て中の彼らに負担をかける気にはなれません。

その夜、健太さんはお気に入りの書斎でひとり、ポツリとつぶやきました。

「あと400万円あれば……」

老後を楽観的にとらえていた後悔と今後への焦りが胸に広がるなか、現実の重みがジワジワとのしかかってきました。