近年、遺産相続をめぐって家庭裁判所に持ち込まれる件数が増加しています。こうした中、「遺言」は相続トラブルを未然に防ぐ有効な手段とされていますが、その内容や書き方によっては、かえって対立を深めてしまう場合もあります。今回は、長女に遺留分を放棄させたいと考えた一人の男性のケースを通じて、遺言の意義や限界、そして家族の関係性が相続に及ぼす影響について考えます。行政書士の露木幸彦氏が解説します。
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長女の心変わり?相続の行方
筆者は「遺言を読むとき、長女が神妙な気持ちになっていれば、その通りにしてくれるのでは」と前もって説明しました。そのことを踏まえた上で筆者はこのような遺言を用意し、孝行さんは記入しました。「すべての財産を妻に相続させる。一度でもソリストの姿を見てみたかった」と。長女がこの遺言に触れるとき、すでに孝行さんはこの世にいません。ヴァイオリンの音色を聞かせることは不可能です。そんな後悔の念が湧いてくれば、父親の最後の願いを聞き入れようと思うのではないか。そんなふうに期待したのです。
ところで孝行さんにとって家族は妻しかいません。長女に通夜や葬儀の日程を知らせなかったそう。長女に連絡をとったのは四十九日法要が終わったあと。孝行さんが亡くなったこと、相続を放棄してほしいことを手紙にしたため、封筒のなかに遺言のコピーを同封しました。しかし、長女は「わかりました。請求できるものは請求させていただきます」と突っぱねたのです。父の最期の願いが叶うことは、ありませんでした。
前述の通り、長女の遺留分は4分の1です。財産のなかで何を長女に渡したらいいか。そんな取捨選択をしている最中、逝去から10ヵ月目に長女から手紙が届いたのです。長女から「相続の件は結構です」という手紙と、相続放棄申述書のコピーが同封された封筒が届いたのです。
相続を放棄する場合、家庭裁判所に書類を提出しなければなりません(民法938条)。その書類が相続放棄申述書です。急転直下、長女が翻意したのですが、なぜでしょうか?
妻が市民ホールの演奏会のパンフレットを見たところ、たまたま長女の名前を発見したそう。長女は20年以上にわたり、人前でヴァイオリンを演奏することはなかったはずですが、どういう風の吹き回しでしょうか? 長女がどういうつもりでキャリアを一時リタイヤしていたのかは分かりませんが、家事や育児だけで精一杯。ヴァイオリンから離れたくて離れたのではなかったようです。推察するに、今回の遺言が復帰するきっかけになったのでしょう。相続の放棄はそのことに敬意を表したのだと考えられます。
血のつながった家族……誰を父、母、兄弟姉妹に持つのかを選べません。そのため、「そりの合わない人」が家族のなかにいたら相続は厄介です。
遺言は、望んだ通りに思いを伝える手段である一方で、受け取る側にとっては複雑な感情を引き起こすこともあります。「故人の意志を尊重しよう」と受け入れられればよいのですが、場合によっては「そこまで私を遠ざけたのなら……」と、かえって遺留分の請求へとつながることもあります。
今回のケースでは、遺留分をいったん請求した上で最終的に放棄するという経過をたどりましたが、遺言が意図とは異なるかたちで作用する可能性があることも、念頭に置いておくことが大切です。
露木 幸彦
露木行政書士事務所
行政書士・ファイナンシャルプランナー