近年、遺産相続をめぐって家庭裁判所に持ち込まれる件数が増加しています。こうした中、「遺言」は相続トラブルを未然に防ぐ有効な手段とされていますが、その内容や書き方によっては、かえって対立を深めてしまう場合もあります。今回は、長女に遺留分を放棄させたいと考えた一人の男性のケースを通じて、遺言の意義や限界、そして家族の関係性が相続に及ぼす影響について考えます。行政書士の露木幸彦氏が解説します。
結婚式には呼べないけれどお祝い金100万円は欲しい…娘からの言葉に唖然→72歳男性がしたためた遺言書の中身とは?【行政書士の助言】
遺産相続で揉めるケースが増えている
最近、遺産相続で揉めるケースが増えています。例えば、家庭裁判所に遺産分割調停を申し立てた件数ですが、2023年には13,872件に達しています(法務省の司法統計年報)。調停とは当事者同士で示談が成立しない場合、家庭裁判所内で調停委員を交えて話し合う制度です。つまり、裁判所外で解決できないほど揉めに揉めているケース。2003年は9,196件だったので20年間で4割近くも増えているのです。
相続で揉めないための切り札は「遺言」。誰にどの財産を渡したいのかを書面に残しておけば安心でしょうか。例えば、全国各地に公正役場があり、そこで遺言を作成してくれます(=公正証書遺言)。その作成件数は2023年で11万8千件。2020年は9万7千件だったので、わずか4年間で約2割も増えています(日本公証人連合会調べ)。
次に遺言を作成する理由ですが、「相続トラブルを避けるため」が34%を占めています(日本財団「遺言・遺贈 に関する意識・実態把握調査」)。筆者は行政書士、ファイナンシャルプランナーとして離婚や再婚が絡む相続の相談を多く、受け持っています。遺言は書き方次第で、相続が余計に揉める原因になるのではないか。そう懐疑的に考えています。
長女に遺留分を放棄させたかった孝行さんのケース
遺言には、故人の思いが色濃く反映されます。たとえば、特に親しいAに全財産を遺したい、あるいは関係がうまくいかなかったBには財産を渡したくない、というケースもあるでしょう。しかし、仮にBが故人の子であった場合、民法1042条に定められた「遺留分」という制度が関わってきます。遺留分とは、たとえ遺言によっても奪えない、一定の相続分のことを指します。このケースではBの遺留分は財産全体の4分の1となり、Bがその権利を放棄しない限り、遺言どおりにすべてをAに渡すことはできません。
では、「誰にどれだけ残したいか」という気持ちを、できるだけ形にするにはどうすればいいのでしょうか? 今回は遺言の書き方を工夫することで、長女に遺留分を放棄させることに成功した青島孝行さん(72歳。仮名。闘病中)のケースを紹介しましょう。
なお、本人が特定されないように実例から大幅に変更しています。また家族の構成や年齢、離婚の原因や養育費の支払状況、ガンの進行具合や逝去の原因、財産の詳細などなどは各々のケースで異なるのであくまで参考程度に考えてください。
夫:青島孝行(72歳。闘病中)☆今回の相談者
妻:青島ひかり(48歳。パートタイマー)
前妻:橘高弥生(享年64歳)
長女:小森谷輝美(48歳。専業主婦)
長女の夫:小森谷孝弘(52歳。会社員)
長女の子:小森谷陸(17歳。高校生)
預貯金 1,259万円(退職金1,000万円を含む)
投資信託 335万円
外貨預金 156万円
計 1,750万円
遺産は現妻に残したい
筆者の事務所へ来たとき、孝行さんはすでに満身創痍の状態でした。前立腺の肥大から前立腺のガン、そして大腸への転移。孝行さんは4年間、続々と病魔に襲われ、つらい治療に耐えたものの、治療の選択肢が尽きたと告げられたのは、先月のことでした。筆者は傍らに寄り添う女性が気になりました。なぜなら、一見すると二人は親子だったから。しかし、孝行さんは「娘じゃなく家内です。まぁ、娘と同じ年ですが……」と明かしたのです。
孝行さんは32年前に前妻と離婚。前妻との間に48歳の長女がいるのですが、48歳の妻とはシニア婚活サイトで知り合い、再婚したとのこと。
孝行さんは「無理がたたって寿命を縮めました!」と語気を強めますが、孝行さんが言う「無理」というのは、長女が音楽大学へ進学したこと。長女が選択したのはヴァイオリンのソリストを目指すコースですが、初年度の学費は200万円。他のコースに比べて高額ですが、前もって孝行さんに相談せず、勝手に受験したのです。それは海外の音楽学校に留学したときも同じでした。当時、孝行さんの年収は700万円。養育費と学費の合計は12年間で2,500万円を超えました。
ところで長女はどのような人物なのでしょうか? 孝行さんに直接連絡があったのは長女が結婚するとき。「『元』父親だから結婚式に招待できないけれど、祝い金(100万円)はください」と。養育費は払うのは親の務めと考えていた孝行さんでしたが、長女の言葉に「これ以上払えない」と要求を断ったそうです。
長女は子どもを出産して以降、家庭に入ってしまったのでしょうか。ヴァイオリニストとして公の場に姿を現した形跡がないそうです。孝行さんは「ヴァイオリン御殿でも建つのかと思っていました。正直なところ、今まで払った養育費を返してほしいくらいですよ!」と吐き捨てます。養育費は子供の権利ですが、孝行さんとしては「一言感謝の言葉があれば……」という思いがあったのかもしれません。
孝行さんが亡くなった場合、彼の財産はどうなるでしょうか? 法定相続分(法律で定められた相続割合)で計算すると、妻と長女はどちらも2分の1ずつです。しかし、孝行さんは「(長女に渡したお金は)もう十分ですよ。あとは彼女(妻)にすべて渡したいんです!」と声を振り絞りますが、「妻に全財産を渡す」という遺言を書いても、長女には遺留分があります。『法律上』は妻に全財産を渡すことは難しいです。