毎年秋に奈良国立博物館で開催されている「正倉院展」(今年は10月26日~11月11日開催)。1300年前の聖武天皇ゆかりの宝物を見るために、毎年全国から多くのファンが訪れます。ここでは、正倉院の宝物である「正倉院紋様」を、和と着物の専門家である池田訓之氏が取り上げます。
唐草模様の歴史
唐草模様といえば、風呂敷を連想される方が多いでしょう。嫁入りするときには、調度品を唐草の大きな風呂敷に包んで、新郎の家に運んだものです。なぜ唐草の風呂敷で包んで嫁入りするのかといえば、唐草の文様には、「一生添い遂げます」という意味があるからです。唐草は、ほかの木にまとわりつき生きていきますが、いったんまとわりつくと、その木が枯れるまでまとわり続けるという性質に由来するそうです。
ちなみに、マンガで泥棒が唐草の風呂敷をもっているのは、家に忍び込んだら、まず一番たくさん物を包める道具として唐草の風呂敷を探して、物色品をつめて、風呂敷ごと持って帰るためだそうです。
着物や帯の文様としても唐草は人気ですが、実はこの唐草文様は、紀元前438年に建てられたギリシャのパルテノン神殿にもデザインが施されており、それがルーツになっているといわれています。そんな遠く離れた西洋の柄が、どうやって日本に伝わり、定着したのでしょうか。
シルクロードを通って伝わった1300年前の宝物
それは、シルクロードを通って日本まで伝わってきたのだと思われます。シルクロードとは、その名のとおりシルク(絹)の道です。紀元前3000年ごろ中国が黄の時代に、お妃の嫘祖(れいそ)が、絹織物を考案したとされています。
一節によると、嫘祖が森に果物をとりに出かけた折に蚕の繭を見つけて持ち帰り、偶然にお湯につけると繭がふやけてクルクルと細い糸がとれたそうです。それはいままでに見たこともないような、か細くて、光沢のある糸、それで織った織物はこのうえなくしなやかで、美しい。
たちまち絹織物の噂は世界へ広まり、世界中から、自国の名産品をもって、夢の織物、シルクと交換してもらうために中国へ人が押し寄せたのでした。ギリシャからも使者が通ったであろうし、ギリシャの宝物には唐草の柄が施されていたことでしょう。
日本と中国とのあいだでも、繰り返し行き来はありました。代表的な往来としては、遣隋使や遣唐使があげられます。中国から学問、政治体制を学ぼうと大使節団を送ったのでした。基本的な規模は4艘の船に100人ずつ計400人程で移動したそうです。飛鳥、奈良時代に20回ほど行われ平安時代に廃止されました。
遣唐使はこのように大規模な事業なので、大体20年に一度のペースで実施されたのですが、それを実現した天皇の1人が、東大寺の大仏殿の建立でも知られる聖武天皇でした。
聖武天皇が亡くなると、皇后の光明皇后は、聖武天皇が中国からもらい受け大切にしていた宝物を見ているのがつらいと、聖武天皇の四十九日を済ませると、約650点もの宝物を東大寺に寄進しました。その宝物を保管する倉庫が保管能力の高い校倉造で造られた正倉院です。
シルクロードを通って中国に世界中の宝物が集まり、それを、聖武天皇が派遣した遣唐使が持ち帰り、聖武天皇の没後は正倉院に保管されることになったのでした。