毎年秋に奈良国立博物館で開催されている「正倉院展」(今年は10月26日~11月11日開催)。1300年前の聖武天皇ゆかりの宝物を見るために、毎年全国から多くのファンが訪れ、1日あたりの平均入場者数は世界有数といわれています。本記事では、その人気の理由について、和と着物の専門家である池田訓之氏が解説します。
「正倉院展」とは?
「正倉院展」とは、奈良の東大寺に隣接された正倉院という倉庫のなかに眠る宝物(正倉院宝物)を期間限定で公開するイベントです。定期開催は戦後間もない昭和21年から始まり、今回が76回目になります。
毎年開催間近の10月になると「今年はどんなお宝が公開されるのか」という解説がメデイアを賑わせはじめ、約2週間の会期中は多くの人々が押しかけ、なかに入るのに1時間待ち程度が常です。筆者もこれまでに何度も通いましたが、毎回外で並ぶという試練を体験してきました。コロナ禍などの影響もあり、ここ数年は落ち着いてきていますが、もともと1日あたりの平均入場者数は、展覧会としては世界有数といわれています。
なぜそんなに人気があるのか。最も大きな理由は、1300年も前の宝物が「ほぼ新品の状態」で見物できるからです。
聖武天皇のコレクションが始まり
1300年前といえば奈良時代、奈良時代を代表する天皇といえば聖武天皇、正倉院展の始まりは聖武天皇に遡ります。聖武天皇の功績といえば、世界最大の木造建築物である奈良の大仏殿を造られたことが1つでしょう。飢饉で苦しむ民を救うために仏教に助けをもとめたのでした。
現在の大仏殿は2回の火事に遭い、当時の3分の2の大きさに縮小されているそうです。また大仏殿をまもるように東西に高さ100mの七重の塔も建立されました。のべ260万人(当時の人口が500万人)が働き、40年かかったそうです。このような壮大な公共事業を進めるかたわらで、聖武天皇が実現したのが、中国への遣唐使の派遣です。唐は、現在の中国から中央アジアまでを支配する大帝国でした、その唐から仏教だけでなく、最新の官僚政治や文化、技術を学ぶために、多くの人材を派遣したのでした。
聖武天皇は733年に4艘の船を大帝国である唐に送りました。日本が遣唐使を送り続けたのは、仏教や政治制度を学びたいという面もあるのですが、大帝国である唐に睨まれると日本国の存続が危うくなるという理由もありました。そのため、唐の周辺国は、定期的に唐の王に挨拶に通ったのでした。遣唐使は唐の王への挨拶という側面もあったのです。
そのころの日本は、まだ工芸品を作り出す技術が高くなかったため、唐に献上するのは、油、砂金、銀、水晶、絹糸、麻などの原料が中心でした。そして、代わりに唐の王から返礼品を持ち帰ってくるのです。このお返しの品がすごかったのです、なぜなら、当時の唐には世界中の宝物が集まっていたからです。こうして遣唐使が持ち帰った宝物は、聖武天皇のコレクションとなりました。
湿気に強い正倉院で聖武天皇の愛した宝物を保管
そんな聖武天皇ですが、756年に55歳で東大寺の大プロジェクトの完成をみることなく亡くなります。残された光明皇后は、聖武天皇の愛した宝物を見ると、悲しすぎるとのことで、49日が終わると、聖武天皇の愛したコレクションを東大寺に寄進したのでした。
東大寺では、この貴重な宝物を、湿気に強い校倉造という工法で造った倉庫たる正倉院で保管したのです。東大寺が世界最大の木造建築物であるなら、正倉院は現在世界最古の木造倉庫となっており、どちらも世界遺産にも認定されています。こうして正倉院に聖武天皇の遺品650点が、その目録(国家珍宝帳)とともに正倉院に納められました。