まるで“ヒーロー”の指揮者…アシュケナージのN響への想い

●ウラディーミル・アシュケナージ(1937年7月6日~)

旧ソヴィエト連邦出身の指揮者、ピアニスト。モスクワ音楽院で学び、1962年のチャイコフスキー国際コンクール等で優勝後、ピアニストとして活躍。膨大な録音を行うなど、20世紀後半を代表する存在となった。

1970年代からは指揮活動にも取り組み、ロイヤル・フィル、ベルリン・ドイツ響、チェコ・フィル等のポストを歴任。N響では、2004~07年に音楽監督を務め、退任後は桂冠指揮者となった。2020年1月、演奏活動からの引退を発表。

我々の時代のアシュケナージは、文句なしのヒーローだった。ベートーヴェンのソナタをはじめ、あのピアノ演奏はやはり凄い。私は全盛期を同時に体験していたし、ウィーンにいた頃も、彼のピアノを聴いていた。だからN響で最初にお会いしたときは、まさに「ヒーローが目の前に現れた」といった感じで、「ああ、この人、本当に存在するんだ」とさえ思った。

彼は、海外に出ていこうとしていた当時のN響に相応しい音楽家でもあった。世界でデュトワを知らない人はいても、アシュケナージを知らない人はほとんどいないし、ピアニスト時代に培った人脈も幅広い。

N響がアメリカ演奏旅行に行ったときなど、普段はなかなか動いてくれないカーネギーホールのスタッフも、アシュケナージが頼めば要求通りに動いてくれた。それほどリスペクトされていたし、ウィーンやスペインのコンサートを新たにセッティングするといった交渉術も見事だった。そうした手腕はデュトワとは異なるものだ。

彼の望みはシンプルに「みんなと一緒に音楽がしたい」だったと思う。楽員には丁寧に接するし、ランチも近くのコンビニに行って自分のお金で買っていた。こんな指揮者はまずいない。

よく「(指揮するときの)棒がわかりにくい」と言われていたが、私から見れば十分だった。例えば現代曲では、彼の頭の中で想像している音が、棒で表現できない次元に達していた。棒が理解しづらいときも、一緒に指揮者室に行ってその箇所をピアノで弾いてくれると、どの声部がどうなっていて、彼がどういう演奏をしたいかということがたちどころにわかる。

もはや彼の頭の中では、作曲家が書いたものを超えていて、どうすればその曲がもっと良くなるかということまで知っていた。

言い換えれば、アシュケナージは「作曲家に近い指揮者」だった。「作曲者が書いたことを自分の中に取り込んで、それを探ろうとした人」とも言えるだろうか。彼が、作曲家を物凄くリスペクトして、作品の全ての内容を細かく理解し、自分の中で消化した上でそれを表現しようとしていたのは間違いない。だからある意味、彼の見えない部分を見ないと理解できないかもしれない。