18歳で故郷の北九州・小倉を離れヨーロッパに渡った、ヴァイオリニストの篠崎史紀(愛称は“まろ”)氏。篠崎氏によると、イタリアの港町であるシチリアは小倉に似ているといいます。観光するだけではなく、生活することで見えてくるその地の文化や特色があるのかもしれません。篠崎氏の著書『音楽が人智を超える瞬間』(ポプラ新書)で、小倉とシチリアの意外な共通点をみていきましょう。
北九州は“日本のシチリア”?…N響コンマスが感じた「小倉」と「イタリアの港町」にある“意外な共通点”
故郷、小倉はイタリアの港町?
私は、1963年に長野県松本市で生まれた。母の生まれ故郷だ。だがその後すぐに、父が生まれ育った北九州市の小倉に引越して、そのまま小倉で育った。私の原点であり、自分の本当の居場所だ。
私は18歳でヨーロッパに渡って以来、故郷で暮らしていない。だからこそ、自分のルーツをとても意識している。小倉の街は、いつも私の心の中心にある。
そう言うと、さぞ美しい場所なのだろうと思われるかもしれない。たしかに平尾台を駆け回ったり、海や川へ釣りに行ったり、自然の中で遊ぶのも楽しかった。でも、故郷の景色として最初に浮かぶのは、街にいる「酔っ払い」たち。
当時の北九州は日本有数の工業地帯で、海岸線沿いには工場が立ち並んでいた。日本最大規模の官営製鉄所として栄えていた八や幡はた製鐵所があり、私が生まれた1960年代には、従業員も数万人はいただろう。
製鉄所は24時間火を止めてはいけないので、勤務は3交代制。朝昼晩と製鉄所で勤務を終えた人たちが街に繰り出す。立ち飲み屋や居酒屋も朝から営業していて、彼らの憩いの場となっていた。
北九州市は「新仁義なき戦い」シリーズの舞台になったり、「無法松の一生」「青春の門」「修羅がゆく」などの映画や、昨今のド派手な成人式が有名だったりと「柄が悪い」印象がある。
でも、私にとっては「情が深い」街。酔っ払いたちだけではなく、変な大人たちがいっぱいいた。変だけれど、陽気で気のいい人が多かった。
製鉄所の作業は危険だから、結束力が固い。ケンカもするけれど、基本的に仲間意識が強かった。街のどこかでもめごとがあれば、警官を呼ぶ前に誰かが仲裁し、収める。火事が起きたら駆けつける。彼らの目があるから空き巣の心配もない。常に人の目があるという点では、絶妙に秩序が保たれていた。
子どもが悪さをしていると「やめろ!」と一喝された。でも、困っていれば助けてくれた。陰湿ないじめがあまりなかったのも、彼らの目があったおかげだろう。「怖いおっちゃん」ではなく、子どもから見たらむしろ「正義のおっちゃん」たち。
大人が昼間からお酒を飲んで陽気に騒いでいるのは、イタリア人と同じ。小倉は「日本のシチリア」ではないかと、ひそかに思っている。シチリアはアフリカとイタリア半島の間にあって、地中海の十字路として古代から文明が栄えた。
北九州市も色あいが違う五つの市(門司、小倉、若松、八幡、戸畑)が、私が生まれた年に合併してできた都市で、もともと多様性がある土地だ。海が身近で陽気でおしゃべりな人が多いという点もイタリアの港町と似ている。
「北九州=シチリア説」は、私だけの持論のつもりだったが、数年前、北九州国際音楽祭に海外から招待された指揮者や演奏家を父に紹介したときに「マロのお父さんはイタリア人か?」と驚かれた。
父は外国人でも物おじせずに「やあ、何か食べてきたかい? お腹は空いてないかい?」と、子どもの相手をするように北九州弁で話しかける。それでもなぜかコミュニケーションが取れているから不思議だ。
イタリアに行くと、現地の人たちは通じなくてもイタリア語でガンガン話してくる。「わからないよ」と言ってもおかまいなし。
小倉の酔っ払いたちも、子どもだった私が意味がわからないことを延々と話しかけてきた。こっちもこっちで、興味のある話はちゃんと聞いていたけれど、適当に聞き流していることも多かった。
故郷での経験があったので、後に海外に行ったときに言葉が通じなくても、それほど動じなかった。そもそも通じなくてあたりまえ。
向こうが現地の言葉を話してくると、こっちも日本語で対応して、それでも不思議と通じ合えることもあった。だからこそ、人とのコミュニケーションは楽しい。
篠崎 史紀
NHK交響楽団特別コンサートマスター/九州交響楽団ミュージックアドバイザー