「人間関係や恋愛がうまくいかない」「仕事がつらい」「お金が欲しい」……現代を生きる以上「悩み」は尽きません。しかしながら、実は我々現代人と同じように「江戸っ子」たちも悩んできた歴史があるようです。そこで本記事では、落語家・立川流真打ちの立川談慶氏による著書『落語を知ったら、悩みが消えた』(三笠書房)から一部抜粋し、落語の一席とともに「お金の使い方」について考えてみましょう。
「物」よりも「経験」にお金を使おう
ある殿様が家来たちと目黒まで鷹狩に出るが、供の者が弁当を忘れてしまった。腹を空かせている殿様一同のもとに、うまそうな匂いが漂ってくる。
殿様が匂いのもとを尋ねると、家来が「これはさんまという庶民の食べる下魚。ゆえに殿のお口に合うものではありません」と答える。しかし、空腹に耐えかねた殿様は、家来にさんまを持ってくるように命じ、家来は仕方なく農家が食べようとしていたさんまをもらってくる。
直接炭火で焼いたさんまは黒く焦げて脂がしたたっているが、生まれて初めてさんまを食べた殿様は、そのうまさに大喜びする。
さんまのうまさが忘れられない殿様。ある日のお呼ばれの席で、何か食べたいものはと聞かれ、すかさず「さんま」と答えた。庶民の魚であるさんまが屋敷にあるはずもなく、家来は日本橋の魚河岸でさんまを買ってくる。
家来が調理してみるが、さんまには脂が多すぎる。そのため、蒸して脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さってはいけないと骨をすべて抜き、ほぐした身を団子にして、吸い物にして椀で出した。殿様が食べてみると、目黒で食べたものとは比較にならぬまずさ。
どこで求めたさんまかと尋ねると家来は、
「日本橋の魚河岸で求めてきました」
すると、殿様はしたり顔で、
「ううむ、それはいかん。さんまは目黒に限る」
お金は経験値を増やすために
秋の味覚を高らかに訴えた一席です。考えてみたら、秋の落語はこの噺ぐらいしかないのが不思議です。「食欲の秋」とはよく言われますが、そういう風に言われるようになったのは、高度経済成長あたりの飽食の時代からでしょうか。
さて、この落語は、「お金は経験に使うためにある」と読み解くべきではないでしょうか。どうしてもお金は手元にあると貯めたくなるものですが、死蔵させてはもったいないものです。そのお金を使って、たくさんの世界に飛び込んで経験値を増やすべきではと確信します。
どうしてもこの落語に関しては、否、殿様が出てくる落語すべてに通底することなのかもしれませんが、「殿様の無知を笑う」という捉え方になりがちです。
それも無論ありでしょうが、どちらかというと、それは当時の庶民の溜飲を下げるための捉え方ではないでしょうか。やはり落語は時代時代に応じて、捉え方も聞き方も更新すべきではないかと思います。昔ながらの聞き方だけですと、もったいないような気がするのです。
この殿様における、普段の環境から一歩外に出て、普段では絶対に口にしないものを食べるという行為は、ある意味リスクそのものです。それをお金に置き換えてみると(目黒まで狩りに出かけるというのも換算すれば高いはずです)、いつもながらの価値観や固定観念が、お金(リスクを取る行為)によって経験に昇華されたとも言えましょう。
この殿様はリスクによって、新たな味覚を獲得し、経験値を増やしたのです。