二元論では何もわからない

ここで一つ考えてみなければならないことがあります。それは、「そもそも健康とは何なのか」ということです。これまで人びとは、病気の原因になるものを何とかして排除しようとしてきました。細菌、ウイルス、ストレス、タバコ、あるいは公害の原因になるもの。こういった〝悪者〟をとり除くことによって、人間は病気から解放され、健康になれる、と考えてきました。そして、悪者・害をなすものを一生懸命駆逐しようとしてきたのです。


つまり、「病気をなくすこと」が「健康」だ、という健康観がその根底にはあるわけです。健康が善であるのに対して、病気は悪であり、両者はあい対立するものだというとらえ方です。その証拠に、病気で倒れる人間は敗北者だと思われてしまいます。体の調子が悪くても、オチオチ会社を休んでいられないのです。また病気は、悪くすれば犯罪と同じように見なされます。


「あいつは、この会社のガンなんだよなあ」こんなふうに、ガンという病気が、ダメな人間、劣った人間をたとえる言葉として使われています。ガンだけではありません。ハンセン氏病は、フランスなどではダメな人間の代名詞として使われています。かっては、エイズ患者に対しての差別がとくに問題でした。病院のなかには、エイズ患者の治療を拒否するところもあるのです。


エイズ患者がいると、ふつうの患者さんが怖がって来なくなるというのがその理由ですが、エイズの感染力が低いことをいちばん知っているはずの医療現場でそうした差別が行なわれていたのは、まことに悲しいかぎりです。差別のために、エイズ患者は、病気だけでなく、精神的な苦しみまで背負わされていたのです。


しかし、こんなふうに病気を「悪」としてとらえ、それを排除するだけで健康になれる、と考えるのはどうもおかしいのではないか、と思うのです。ものごとを白か黒か、あるいは善か悪かの二つに分類して判断する二元論は、ギリシヤ以来の西洋的な考え方ですが、この二元論には疑問を感じずにいられません。


たとえば、日本でも昔はハンセン氏病は〝業病〟とされた時代がありました。そして、患者たちは社会から排除されるということが、つい最近まで行なわれていたのも事実です。しかし、その一方で、彼らは神に近い存在として敬われたこともあるのです。聖なる印を背負った者として、たいせつに扱われたのです。日本では、病気はかならずしも「悪」ではなかったわけです。


こんな考え方の痕跡は、いまでも残っています。たとえば、政治家や芸能人。汚職の疑いをかけられたり、何か都合が悪くなると、決まって入院します。相撲の世界でも、負けがこんできた横綱や大関は、すぐに入院してしまいます。そして、いったん入院してしまえば、日本の社会ではそれ以上責任の追及を受けることはありません。病気だったらしかたがない、と免罪符を与えてしまうのです。


つまり、病院が一種の聖域となっているわけです。病気になったというと、それは人事を超えた天の意思であるかのように受けとられます。ほんとうに病気かどうかはわかりません。いや、たいていの場合、見えすいた仮病にすぎません。しかし、私たち日本人はそれでも許してしまうのです。日本というか東洋の病気についての考え方には、こうした二元論ではくくれない見方があったのです。


しかし、西洋的な二元論では、こんな考え方は出てきません。病気と健康は対極にあるものであり、病気そのものが悪と考えるからです。ですから西洋医学にもとづく現代医学は、健康になるために、必死で病気を取り除こうとします。悪いところがあれば、たいせつな臓器であろうと、それを切り取ってしまうことをいといません。とにかく悪いところさえ排除すれば、健康になれるというのですから。白か黒かのどちらかしかなく、そのあいだのグレーの部分は切り捨てているのが二元論の考え方です。しかし、ほんとうにそれで、人間の体がわかるのでしょうか。