学校教育はいまやその内容が複雑化して、生徒にとっては「学ぶこと」よりも「いい成績をとること」がその目的となってしまうきらいがあります。本記事では、日本における双生児法による研究の第一人者である安藤寿康氏の著書『教育は遺伝に勝てるか?』(朝日新聞出版)より一部抜粋し、そもそもなぜ「学校」という場所が必要になったのか、その経緯を通して学校教育の本質に迫ります。
すばらしき学校生活
学校がこのようなところですから、基本的に家では経験できないようなたくさんの経験のメニューが子どもたちのために用意されています。それは考えようによっては、ディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンやキッザニアの比ではないほど、豊かな世界ともいえるでしょう。
ただし、テストさえなければ。
学ぶ<いい成績をとる
テストは、そのための勉強に集中することで、確かに経験したことを意識的に記憶にとどめるには役立ちます。ちょっと興味のもてないことでも、テストに出ると言われれば、何とかして理解できる糸口を探そうとして、それがきっかけとなって、自分の興味対象になるかもしれません。
しかしそれ以外の点で、テストの存在は百害あって一利もなしだと、私は考えています。
しかしこれを言うことが、ただの気休めにすぎないことも、読者の多くは感じていることでしょう。それはその通りです。なにしろ、テストの点が良ければ「良い」学校に進学でき、「良い」就職に結びつきます。逆に成績が悪くて落第してしまったり、大学に進めないと、その学歴だけで、よほど別のところで才能を発揮しない限り、社会的には不利になります。
学歴で手に入れた知識がどれだけうわべだけのものだったとしても、世間はまず学歴を見て人を評価しようとします。ですから、学歴とそれに結びつくテストの成績が、学んだ知識それ自体の実質的価値とは別の意味で、人生でもっとも重大な教育上の関心事となります。
テストの成績や学歴はお金に似ています。ただの紙切れにすぎないお札には、それ自体なんの価値もありません。なんちゃらペイにいたっては、スマホの画面上のただの数字にすぎません。にもかかわらずそれらは、生きるために必要な食べ物や服や住まい、生活を豊かにしてくれるさまざまなモノや経験を手に入れるための手段になります。
実質的に大事なのは、お金で手に入れたものをどのような目的で使うかのはずですが、いつのまにか手段と目的が入れかわり、お金をできるだけたくさん手に入れることが目的になりがちです。
同じようにテストの得点や学歴それ自体は何の価値もなく、大事なのは学校でどんな知識を学び、生きるために役立てるかのはずですが、いつのまにか良い学業成績や高い学歴それ自体が目的になってしまいます。お金はたくさんあればあるほど幸せと考えるのと同じように、テストの点数や学歴は高ければ高いほど良いという発想に陥りがちです。
このように学校教育の実質的側面と形式的側面の区別はきちんと意識しておきましょう。人によっては学歴こそが実質で、そこで本当に何を学んだかなんて形式的なものと考えるかもしれません。どちらでもよいのですが、この区別は大切です。ただこれを強調しすぎると、ただの学校批判、現実逃避といわれるのがオチなので、ほどほどにしておきましょう。
安藤 寿康
慶應義塾大学名誉教授・教育学博士