漫画家・弘兼憲史氏が「激しく共鳴した」一冊

「セヴンティーン」/大江健三郎(新潮文庫/『性的人間』所収)

漫画家の日常は想像以上に忙しい。寝る時間を惜しんで執筆に勤しむ生活のなかで、読書をする時間などまずない。新聞を読む時間すらない。情報収集といえば、執筆しながら流しているニュース番組の“耳学問”がせいぜいだ。社会派漫画の描き手としてお恥ずかしい限りだが、それが週刊誌で連載を持ち続ける現実でもある。

そんな私も学生時代には手あたり次第に本を読んだ。高校時代には古典的な日本文学を、そして大学時代には同時代の先鋭的な作家の小説を好んで手にしたものである。

大学時代によく手にしたのは大江健三郎氏の著作だ。きっかけは大学在学時の一九六七年に発表された氏の代表作『万延元年のフットボール』と記憶する。句点の少ない、独特な文体の妙に魅せられ、そこから初期の作品へと遡って耽読していった。

なかでも思い出深いのは、初期作品集『性的人間』(新潮文庫)に収められている短編「セヴンティーン」だ。同作品は、発表前年の1960年に起こった日本社会党委員長・浅沼稲次郎刺殺事件の犯人、17歳の右翼少年・山口二矢を主人公のモチーフとする。

主人公の「おれ」は17歳の誕生日を迎えたばかりの高校生である。大江氏は「おれ」の内面の焦燥はもちろんのこと、成長する肉体を持て余して自慰行為を繰り返す性的側面までをも赤裸々に描く。やがて「おれ」は、右翼の政治結社に身をおくことで、止めどなく湧き出てくるエネルギーのはけ口を見つけることになる──。

安保闘争等、イデオロギーがいつも世間のどこかを騒がせていた時代だ。

この小説もその波に吞まれ、特に第2部の「政治少年死す」は山口二矢少年を著しく汚すとして、右翼団体から激しい攻撃にさらされた。結果、「政治少年死す」は、どの単行本にも収録されない“幻の作品”となっている。

しかし私は、この創作を単なる政治小説として読まなかった。17歳の青少年が、熱情をコントロールできず、ときに怒りを持ち、焦燥感に駆られる狂おしい姿は、いつの時代にも見られるものだろう。

「おれ」の場合、それが時代の要請もあって、イデオロギーに辿り着いたのだ。「セヴンティーン」の根本には、青春小説としての普遍的なテーマがあり、だからこそ若かった私は、この小説に激しく共振したに違いない。

漫画は、命果てるまで書き続けるつもりで、デスクの上でペンを握りながら斃れるのが私の希望である。

それでもいつか、大学生の頃と同じように、じっくり「おれ」と向き合ってみたいと思う。そのとき還暦を超えた私からいったいどんな感情が溢れ出るのか。それが知りたくて、触れられぬほどの熱を帯びたあの17歳の政治少年、セヴンティーンにまた会いたいのだ。