「女性裁判官第一号」

最高裁判所に隣接して、嘉子が弁護士時代に所属した第二東京弁護士会があった。また、新人弁護士の頃に働いていた弁護士事務所も近い。彼女には勝手を知った場所だったのだが、終戦後はこの界隈(かいわい)の様子も大きく変わっていた。

司法省の裏手にある日比谷(ひびや)公園を囲む真鍮(しんちゅう)製の外柵(がいさく)は、戦時下の金属供出ですっかり取り払われていた。園内の花壇も食料増産のための芋畑に。

園の中央にあった池は節水で涸(か)れ果て、東京名所の絵葉書に描かれた「鶴の噴水」は撤去されたまま。また、園内の料理屋「松本楼(まつもとろう)」は進駐軍に接収されて兵士の宿舎になっていた。

司法省庁舎から堀沿いに歩いてすぐの場所には、連合国総司令部が置かれた第一生命館がある。そのため付近では米兵の姿がよく見かけられた。

銀座に足を向けると、空襲で焼け残った服部(はっとり)時計店や東京宝塚劇場などは進駐軍に接収されて米兵の福利厚生施設になり、道路を行き交うのも米軍のジープだらけ。

銀座通りは「GINZA AVE」などと、道路標識は米兵たちが覚えやすいようにすべて英語名に変更されていた。

わずか数年見ない間に、街の眺めは一変していた。知らない場所に迷い込んだようで、啞然(あぜん)としてしまう。

しかし、世の変貌(へんぼう)に驚いてばかりもいられない。毎日忙しかった。連合国総司令部からは、諸法の改正を求めて矢の催促がある。なかでも占領軍が重視し注目したのが民法の改正。日本に民主主義を根付かせるためにはまず、封建的・全体主義的な昔の慣習を排除せねばならないと彼らは考えている。その最大の障害になるのが、戸主に絶対的な権限を与えて家族を支配させた旧民法下の家制度だった。

嘉子の机のまわりでは、いつも大勢の人々が書類の束を抱えて足早に行き交っていた。司法省の中でもとくに騒々しく忙しい部署だったが、ここから日本の民主化が始まる。そう思えばやり甲斐(がい)もうまれてくる。

そして、昭和22年(1947)12月22日には、日本国憲法に基づいて改正された民法が完成する。戦前の民法にあった妻の行為能力を否定した条文については、完全に削除される。

戸主が絶大な権限を持って妻や子どもたちを支配する、昔ながらの「家」の形にこだわる人々がこの頃はまだ国民の大多数を占めていた。そんな人々の感情に配慮し、政界などの抵抗勢力とも妥協を図りながらの難産だった。

この仕事に携わることができたことで、嘉子は心地よい達成感を味わっていた。しかし、新しい民法の下で女性の地位が急速に向上したことには躊躇(ちゅうちょ)も覚える。