日本初の「女性裁判官」誕生に三淵嘉子が抱いた感情

判事補という職位は裁判官の〝見習い〞といったところ。地方裁判所や家庭裁判所に配属されるが、原則として判事補が単独で裁判をすることはできない。

裁判長に陪席して裁判に加わり、そこで10年程度の経験を積まされる。その後に判事に昇進し、一人前の裁判官として認められるのだ。

通常は司法修習を受けて判事補に任官される。戦後の司法修習制度は、戦前よりも期間が短縮されて1年程度となっていた。しかし、嘉子が司法省や最高裁判所で働きながら学び、判事補に任命されるまでには、おおよそ2年間を要している。

これなら司法修習を受けたほうが近道だったはずだが。司法修習が始まったのは、彼女が司法省に採用願を提出してから2ヵ月後のことだった。思い立ったのが少し早過ぎたようである。採用願の提出があと少し遅ければ、司法修習制度も始まっていたから、そちらで学ぶことになっていたかもしれない。

戦後第一期の司法修習生134名のなかには、石渡満子(いしわたりみつこ)と門上千恵子(かどがみちえこ)という2人の女性がいる。門上は嘉子と同い年で、九州帝国大学法文学部卒業後、母校の研究室に助手として勤務しながら法律の勉強をつづけた。

戦時中の昭和18年(1943)司法科試験に合格。戦後になって女性も裁判官や検事になれる道が開かれたことを知り、司法修習を受けることにしたという。修習終了後は東京地方検察庁に入って、日本における最初の女性検事となっている。

石渡のほうは嘉子よりも9歳年上で、東京女子高等師範学校を卒業した先輩でもある。また、昭和19年(1944)に明治大学法学部を卒業しているから、大学では後輩になるというややこしい関係だ。石渡は高等師範学校を卒業後すぐ、婿養子を迎えて結婚したが、8年後には離婚している。その後に明治大学へ入学して法律を学ぶようになった。戦前のことだけに離婚に際しては色々と理不尽な目にもあったようで、それが法律家をめざす動機になったのかもしれない。

石渡は裁判官を志望し、司法修習を終えた昭和24年(1949)5月17日にその証書を受け取った。この瞬間に日本初の女性裁判官が誕生した。

嘉子が判事補に任官されたのはその3ヵ月後だから、日本で2番目の女性裁判官ということになる……。弁護士の時とは違って、裁判官で日本初にはなれなかった。それに関して彼女は何を思ったか?

「昭和二四年四月に、司法研修所で司法修習生としてはじめて男性と共に修習された石渡満子、門上千恵子両氏が判事補と検事に任官された。いずれも女性として最初の任官者である。これからが男女対等の女性法曹時代のはじまりというべきである」

著書『女性法律家』でこのように語っている。先を越された悔しさよりもむしろ、自分のほかにも〝女性初〞に挑み成功した者が現れたことを喜んでいる。仲間の存在を心強く感じていたようだ。

青山 誠

作家