超エリート…嘉子の父・貞雄と、当時の日本

昭和9年(1934)の『東京紳士録』に貞雄の名前がみつかる。その肩書きは石原産業海運顧問。また、昭和13年(1938)の『日本紳士録』は日本防災工業株式会社社長、さらに昭和火工株式会社専務を兼任となっている。台湾銀行を辞めて幾度かの転職を経験していたが、そのたびにいい役職について待遇が良くなってゆく。 

嘉子が女学校に入学した昭和2年(1927)には、台湾銀行をメインバンクにしていた総合商社の鈴木(商店が第一次世界大戦後の不景気によって倒産してしまう。

これによって大量の不良債権をかかえた台湾銀行も休業に追い込まれ、それが同年に発生した金融恐慌の一因になった。銀行が潰つぶれるのではないかと、不安にかられた人々が窓口に殺到する取り付け騒ぎが起きて街は騒然となっていた。

台湾銀行のほうは、後に資本を整理して業務を再開することができた。が、その前にさっさと見切りをつけて転職した者も多い。貞雄は東京帝国大学卒の超エリート、また、海外勤務が長く英語に堪能()だった。不景気の時代とはいえ、有能な人材は引く手あまた。好条件でヘッドハンティングされる。

笄町の屋敷は借家だったが、「ここの家賃の半年分で、立派な持ち家が建つ」知人たちはそう言って羨望(したという。それだけの家賃を払える余裕が彼にはあったようである。

嘉子は女学校の友人たちをよく自宅に招いたという。家は広いし、すぐ近くに市電の停車場があって交通の便も良い。放課後の(たま)り場には最適の条件だった。

女学校のある大塚方面からは、四谷塩(よつやしお)(ちょう)で7系統の市電に乗り換える。車窓に陸軍第三連隊の駐屯地や青山墓地を眺めながら友人たちとおしゃべりしていれば、すぐに笄町の停車場に着く。沿線には学校が多く、放課後の時間帯には制服姿の女学生たちで車内も混雑していたことだろう。

関東大震災後は洋服を着用する人が急速に増えて、洋装の制服を制定する女学校も急増するようになる。昭和時代に入ると東京府下では、ほとんどの女学校が制服を採用するようになり、女学生のスタイルも明治時代の和服姿の袴はかまにブーツから、セーラー服に様変わりしていた。

騒がしい車内でも嘉子のはつらつとした声はよく聞こえ、彼女たちのグループは目立つ。その制服も他校の女学生たちからは注目された。

東京女子高等師範学校附属高等女学校はジャンパースカートなど複数の標準服を制定している。そこから個々の好みにあわせて服を選ぶことができたという。他の女学校に比べると選択の幅が広く、生徒の個性を尊重していたようだ。

現代の高等学校でも、偏差値の高い学校になるほど校則はゆるく、私服登校を認めるなど生徒たちの自由を尊重する傾向にある。些細なことをいちいち言わずとも解っているはずだ、と。生徒たちの良識を信じているのだろうか。昔もまたそうだったのだろうか?

この頃になると高等女学校の進学率は15パーセントにもなり、都市部ではさらに高く20パーセントを超えていたといわれる。明治期と比べると“女学生”の希少価値は低下していた。しかし、嘉子が通う附属高女は別格。日本に数ある女学校のなかでも最難関、才色兼備の娘たちが通う学校として羨望される。