失敗を経て人生が開けてくる

同じ『人生論ノート』の中で、三木は成功についてもテーマにしています。そこで彼が強調しているのは、「不成功=不幸」ではないということです。人生は冒険のようなものであって、必然的に成功も不成功も生じるのです。それらすべてひっくるめて人生なのであって、もし成功だけが人生であり幸福の原因なのだとしたら、人生はなんともつまらないものになってしまうではないか、というのです。

彼が痛烈に皮肉っているのは、成功主義者の人生です。

Streber ―このドイツ語で最も適切に表わされる種類の成功主義者こそ、俗物中の俗物である。他の種類の俗物は時として気紛れに俗物であることをやめる。しかるにこの努力家型の成功主義者は、決して軌道をはずすことがない故に、それだけ俗物として完全である。(前掲書、P85)

「成功だけを目指し、そのためだけに努力する人生。それこそ完全な俗物である」というのです。そういう人はひとたび失敗すると、もう人生が終わってしまいます。ほかに人生を支えるものがないからです。仮に一度も失敗せず出世し続けていたとしても、不思議なことにそのような人生が哀れに見えることがあります。それはやはり人生が豊かさを欠いているからではないでしょうか。

人は失敗から学ぶものです。失敗してはいけないと思われがちですが、そうではないのです。三木は不成功は問題ないといっているわけですから、そもそも失敗は否定的なものではないのです。ただこの人生には、うまくいかないことがあるというだけのことです。そのうまくいかないことをいくつか経験して、初めて人生は開けてくるのだと思います。

言い換えると、断念した回数が多いほど、それだけ真理に近づけるということです。三木がいう通り、断念は諦めることではなく、本当に自分が求めるもの、希望の中の希望に近づくための方法なのかもしれません。それに気づいた人、そしてそれを実践できた人だけが喜びの中で人生を終えることができるのでしょう。その場合の死は、希望を失ったゆえの無念な死ではなく、希望と共にある死だと思うのです。三木はその境地に達していたといえます。

戦争のせいで投獄された三木は、そのまま獄死してしまいます。ただ、病床で彼は気づいていたはずです。すべてを断念せざるを得ない状況に追い込まれたにもかかわらず、哲学だけはすることができる。それこそが自らの希望なのだと。

三木が最期に本当にそう思ったのかどうかは定かではありません。48歳という若さで亡くなっているのですから。でも、ある経験が私にそう確信させました。

シンガポールを拠点に活動するアーティスト、ホー・ツーニェンが、京都学派の哲学者たちを扱った「ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声」という体験型の展覧会を開きました。私はその中でVRを装着して獄中に横たわる三木清と一体化する経験をしたのです。

目の前で三木がつぶやくのを聴いているうちに、自分自身が三木にシンクロしたかのような錯覚を覚えました。その時、こうやって横たわりながらも、哲学することをやめなかった彼のそばには、希望もまた横たわっていることを肌で感じたのです。

きっと最後の最後まで、三木は思索を続けていたに違いありません。そうやって最期の瞬間まで思うことができるもの。それが希望の対象なのでしょう。人生を輝かせることができるのは、その人にとっての希望の光だけです。だから自分にとって今何が希望なのか考えることは、とても大切なことなのです。

小川仁志

山口大学国際総合科学部教授

哲学者