三淵嘉子が気づいた「世の中を変える」ための絶対条件

しかし、その熱気は10年余りで急速に冷めてしまう。大正12年(1923)に関東大震災(かんとうだいしんさい)が起きると、第一次世界大戦の戦後不況に見舞われていた日本の経済状況はさらなる痛手を被った。誰もが不景気を実感するようになり、もはや、民主主義だ、男女平等だと浮かれているわけにはいかなくなる。大多数の人々にとっては、そんなことよりも自分たちの生活が気にかかる。

震災発生当時、嘉子は小学校3年生だった。この年齢なら当時の状況を記憶していたはずだが、彼女がそれについて何かを語ったことはない。生活圏である山の手地域では、下町のような大火災は発生しておらず被害はほとんどなかった。それだけに後の戦災の時のような悲惨な光景を目にすることもなく、印象が薄かったのだろう。

だが、震災を契機に急変していった世の風潮は感じていたはずだ。集会やデモは減ってゆき、たまにデモを見かけても人々が訴えるのは生活のことばかり。街中で自由や民主主義という言葉が聞かれる頻度が減ってきた。

大正デモクラシーの盛りあがりと終焉(しゅうえん)をその目で見ている。そのことが、彼女のその後の生き様に影響を及ぼしたのかもしれない。世を変えるための凄(すさ)まじい熱量、それを長く保つのは難しい。しかし、熱を維持してやりつづけなければ、世を変えることはできないということを。

青山 誠

作家