父母の出会い

半円形の窓に施された漆喰(しっくい)装飾やパステルカラーの家々がならぶ街並みに、南国の強い日差しが降り注ぐ。通りに軒をつらねる建物の大きく張り出した屋根は、アーチ状の柱で支えられ、それが日差しを避ける格好の通路として機能していた。

軒下にできた日陰の小径(こみち)を、つばのないイスラム帽を被(かぶ)ったマレー系の男性、鮮やかな色のサリーを身にまとったインド人女性、でっぷりと肥えた商店主風の中国人など、さまざまな人種が行き交う。

三淵嘉子(みぶちよしこ)が生まれてはじめて目にしたのは、おそらく、こんな感じの眺めだろうか。彼女は大正3年(1914) 11月13日にイギリス領シンガポールで生まれている。名前に使われている「嘉」の一字も、シンガポールの漢字表記「新嘉坡」に由来する。

熱帯の街での暮らしは、まだ赤ん坊だった嘉子の記憶に残っていないだろう。が、彼女の父母の意識には、この異文化体験が少なからぬ影響をもたらしたようだ。それは帰国後の子どもたちの教育にも影響する。

嘉子の父・武藤貞雄(むとうさだお)は東京帝国大学法科卒業のエリート。彼が勤務する台湾銀行は大正元年(1912)にシンガポール出張所を開設し、そこへ転勤を命じられて新妻のノブを伴い赴任していた。

貞雄は四国・丸亀(まるがめ)の出身で、地元の名家・武藤家に入婿して一人娘のノブと結婚した。ノブもまた当主・武藤直言の実子ではない。彼女の実父は若くして亡くなり、6人の子沢山だった一家は生活に窮してしまう。そのため末っ子だった彼女は、伯父の直言に養女として引き取られた。

直言には子どもがいない。自分と血の繫つながるノブに婿を取らせて家を存続させる。最初からそれが養子縁組の目的だったのだろう。

武藤家は金融業などを営む資産家で、大きな屋敷をかまえていた。しかし、かなりの倹約家でもある。家のことを取り仕切る義母・駒子も質素倹約の家風をかたくなに守り、まだ幼かったノブにも容赦なくそれを叩き込んだ。便所紙を使いすぎるとか、些細(ささい)なことですぐに説教される。また、掃除や洗濯などの家事にもこき使われた。倹約家なだけに、広い家に見合うだけの女中を雇っていなかったのだろうか。

義母はかなり細かく几帳面な性格でもあり、一切の妥協を許さない。仕事に手抜かりがあればまた𠮟責される。ノブとは血縁のない赤の他人。血の通った母娘であれば、その受け取り方もまた違っただろうが。

義母の小言は、女中奉公にだされた先で女主人から𠮟られているよう。そこに愛を感じることはなかったようである。幼な子が親元を離れて暮らすのは辛い。それにくわえてこの仕打ち。恨んだこともあっただろう。