「戦争の世紀」である20世紀。ヨーロッパでは、ドイツとイギリスの覇権争いが繰り広げられます。日露戦争を開戦した日本は、結果的に有利な条件で講和条約を結ぶことができましたが、アメリカとの関係にひびが入ることに……。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、20世紀初頭の世界の流れを見ていきましょう。
日本の宣戦布告の理由は「南下するロシアの脅威に耐えかねて」ではなかった?…「日露戦争」開戦の知られざる“真実”【世界史】
日露戦争開戦の真実は、「日本がロシアの弱みにつけこんだ」
日英同盟で安心した日本は1904年、日露戦争を仕掛けます。日露戦争については、「南下するロシアに対し、日本が耐えに耐えた末に、乾坤一擲の勝負を挑んだ」と思っている人が多いですね。司馬遼太郎さんが『坂の上の雲』で描いた構図です。しかし、近年の研究によると、史実は逆のようです。
ロシア国内は当時、反体制運動などで騒然としていました。19世紀末に結成されたロシア社会民主労働党は1903年、多数派のボリシェヴィキと少数派のメンシェヴィキに分かれ、レーニンが多数派の指導者になりました。そんな状況につけこみ、「日英同盟もあるし、今なら満洲の権益を奪えるかもしれない」と思って、日本がちょっかいを出したということのようです。
戦争が始まった後も、ロシアでは、「血の日曜日事件」が起きて、皇帝のニコライ2世が国会開設の約束をさせられ、「戦艦ポチョムキンの乱」も起きるというように、荒れに荒れていました。満洲に構っていられませんでした。司馬さんがあの素晴らしい小説を書いたのは冷戦時代で、ロシアに関するデータが十分にそろっていませんでした。
開戦と同時に、停戦交渉に着手した伊藤博文
日露戦争の開戦時、日本には幸運なことに伊藤博文という明治の元勲が生き残っていました。伊藤は戦争が始まるや、金子堅太郎をワシントンに送り込みます。岩倉使節団に随行した金子はアメリカ暮らしが長く、ハーバード大学の学生時代に無二の親友を得ていました。その親友がセオドア・ルーズベルトです。金子の親友が大統領になっていることを、伊藤は知っていました。
ロシアは弱っているから最初は勝てるかもしれないけれど、日露では国力が違いすぎることを、伊藤はわかっていました。最後はアメリカに仲介を頼む以外に戦争を終わらせる方法はないと考えていました。だから金子をアメリカに派遣したのです、終わらせ方を計算したうえで戦争を始めたのです。伊藤の読みは当たり、セオドア・ルーズベルトの仲介で日露戦争は終わります。
日露戦争の戦後処理から、日米関係がおかしくなる
日露戦争の間、日本政府は「勝った、勝った」と世論を煽りましたが、実際は苦戦続きでした。もともと無理をして仕掛けたので、多くの兵が亡くなりました。ロシアにはあと何年も戦争を続ける体力が残っていましたが、日本は陸軍も海軍も兵站が延び切っています。
そこでルーズベルトの仲介で、停戦交渉を始めます。小村寿太郎という有能な外務大臣が粘り強く交渉して、講和条約は日本に有利な内容になり、ロシアは南樺太を日本に割譲しました。ただし、賠償金はとれませんでした。国民は怒りました。日清戦争で多額の賠償金がとれたので、同じくらいとれると思っていたのです。
「日比谷焼き討ち事件」が起きて、新聞も政府を批判する記事を書きます。逆恨みで「こんな仲介をしたアメリカはけしからん」という論調も出てきます。
セオドア・ルーズベルトはどう思うでしょう。「何という国や。友情からえこひいきしてやったのに恨むなんて。こんな国は信頼できない」と思いますよね。日米関係がおかしくなっていきます。
韓国併合から日本は暗黒時代に入る
日露戦争後、日本は朝鮮進出を加速します。伊藤博文は、「朝鮮民族は誇り高い。韓国の外交と内政をコントロールできれば十分で、韓国を併合したらあかん。それをやってしまうと禍根を残す」と考えていました。ところが、その伊藤博文が暗殺されて、日本は歯止めが利かなくなり、1910年に韓国を併合します。この年には、冤罪をでっち上げて社会主義者を処刑した大逆事件も起きて、日本は暗黒時代に入っていきます。