財政難にあえいでいた古豪「ランボルギーニ」の大躍進

VW(フォルクスワーゲン)は志が高く、大衆車のラインアップを充実させて足場を固めた後、高級ブランド、スポーツ・ブランドも充実させた。フランスの老舗ブガッティに飽き足りず、イタリアを代表するスーパーカー・ブランド、ランボルギーニを99年に買収した。フィアットと関係が深いフェラーリではなく、財政難にあえぐ孤高の名門に「救いの手」を差し伸べた。

イタリア人は北部の(几帳面な)人間のことを「ドイツ人っぽい」などと軽口を叩くほど、普段はドイツにいいイメージを持っていない。VWによるイタリア・ブランドの買い漁りに対して敵対的な空気にならなかったのは、ランボルギーニ買収時、独首相がVW監査役あがりのゲアハルト・シュレーダーであり、政治的な火消しが盤石だったからだろう。イタリア側も、EU発足後の一時的な好景気が長続きせず、背に腹は代えられなかった。

ランボルギーニ社の生い立ちを振り返ってみよう。フェラーリの創業者、エンツォ・フェラーリは第二次大戦前にアルファ・ロメオのレーシング・ドライバーを務め、地元のアルファ販売店の裕福なオーナーだった。

対してフェルッチオ・ランボルギーニは、日本で言えばメカニックあがりの走り屋だった。大戦中にメカニックとして従軍したことで知識と技能を獲得、戦後、軍から安く払い下げられたトラック用エンジンを利用し、ガソリンではなく軽油で安く動くトラクターを開発・生産し、一挙に成功した。

そんな彼がスポーツカーの開発に乗り出したのは、個人で買った(念願の)フェラーリを分解、その中身と乗り心地の「酷さ」に失望し、そこにビジネス・チャンスを見たからだと言われている。

99年、VWによる買収の後に登場したのが、2003年のガヤルドである。それまでランボルギーニは、旗艦ディアブロや後継のムルシエラゴ以外生産しておらず、年間生産台数は200台から600台の間を不安定に行き来していた。当然、会社の収益も安定しなかった。

ガヤルドはVW傘下のアウディR8の姉妹車であり、アライアンスが存分に活かされたおかげで、久々に旗艦より小さい「お手頃な」モデルの投入となった。その年の内に、年産1,000台の大台に乗った。

出所:『自動車の世界史』(中央公論新社)より抜粋
【画像3】ランボルギーニ・アヴェンタドール 出所:『自動車の世界史』(中央公論新社)より抜粋

勢いを得たランボルギーニは2011年、満を持して旗艦をアヴェンタドールに託した。車体はカーボン、700馬力発生するV12エンジンの力を四駆で路面に伝え、最高時速は350キロ超、時速100キロ到達は2.9秒の性能を誇り、世界各国の有名サッカー選手らが所有するハイパーカーの王道となった。これで同社は年産3,000台を超えた。

ランボルギーニは近年、SUVのウルスの加勢で年産9,000台に迫ろうとしている。アヴェンタドールの最終型と言われるSVJは770馬力までパワーアップしたが、さしもの「闘牛」も、次世代は何らかの電動システムで武装することとなろう。年産1万台の大台に乗ると、EUの規制によりCO2削減義務が課されるからだ。

鈴木 均
合同会社未来モビリT研究 代表