「便利な家電は一通り揃えているけど、やっぱり家事が苦手」…こんな人はきっと少なくないでしょう。しかし、『家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択』の著者である稲垣えみ子さんは、家電を片っ端から手放したことで家事が楽になり、「バラ色の世界が現れた」とまで語っています。さらに「お金がなくなったことで家事がいっそう楽になった」とも。その理由を、著書から一部抜粋してご紹介します。
お金がなくなった…さらに家事がラクになった!
先立つものがないとなれば、当然のごとく享受してきた生活をあれこれあきらめねばならぬ。ということで、まずは家賃を抑えるため高級マンションから老朽ワンルームに引っ越したら超狭い上に収納ゼロ。結局、洋服も化粧品もタオルも食器も調味料も調理道具も、つまりは私が長年にわたり懸命に働いてコツコツ買い集めてきた我があらゆるコレクションをほぼ全て手放す羽目になった。
洋服は、一昔前のベストセラー『フランス人は10着しか服を持たない』(だいわ文庫)を地でいく10着程度、食事はカセットコンロ一個で塩と醬油と味噌だけで全調理を行うという、連日ソロキャンプみたいな生活の始まりである。修行中のお坊さんだってもうちょっとキラキラした暮らしをしてる気がする。
で、その「悲劇」の結果何が起きたかというと、なんと、さらに家事がラクになりまくったのだ!
掃除も洗濯も炊事もそれぞれ10分程度しかかからない。ここまでラクになってくると、前にも書いたとおり、あんなにうざかった家事との関係が、まさかのラブラブになってきたのである。
だってほんの短時間ちょこちょこ体を動かすだけで、清潔な片付いた部屋で、うまいものを食べ、お気に入りの服を着て過ごす……そんな理想の暮らしが日々実現できるとなれば、どんなズボラ人間とていそいそと動かずにはいられない。
そうなってみて私は突然、ハタと気づいたのだ。
家事とは人生について回る悪夢でもなんでもなく、「自分の自分に対するおもてなし」だったんじゃ?
家事とは自分で自分の機嫌を取ること。自分を大切にすること。世界中の誰も自分を認めてくれなくたって、自分だけは自分をちゃんと認めることができるのだと確認することだ。これまでは家事が大変すぎて、とてもじゃないがそんなふうには考えられなかった。そう「家事なんてなくなれ」と思っていた。とんでもないことであった。家事をしないということは、自分で自分を大切にすることを放棄するということにほかならないのではないだろうか?
かくして一日の終わり、我が極小の台所を蛇口もガス台も流しも壁も全てキュッキュとふきんで拭き、最後にそのふきんをじゃぶじゃぶ手で洗ってベランダにパシッと干すことが最大の楽しみという人生が始まった。今日もいろんなことがあったけれど、何はともあれちゃんと自分を整えて終えることができた。ああ私、大丈夫!……と思えるありがたさ。その日の結着をちゃんとつけて終えるとはなんと気分の晴れやかなことだろう。
そのことに、私は50年生きてきて初めて気づいた。「整う」とはサウナーの専売特許ではなかった。というかこれはもうサウナどころではない。どんな贅沢も、これ以上のリラックスと心の平穏をもたらすことはないように思う。
こうなってくると、これには我ながら本当にビックリしたんだが、あんなに人生をかけて夢中になりまくってきたグルメだのショッピングだのという「娯楽」が、急に「どうでも良いこと」になってしまった。
だって生きている限り最低限の家事はどうしたってついて回るわけで、その家事が簡単な上に楽しく、気分を明るくしてくれるのである。つまりは生きているだけでハイレベルな楽しさが保証されているんである。私は生きている限り、いつだって満たされているのだ。
生きているだけでまるもうけ。
「足りないもの」など何もない。
……という、どこぞの偉いお坊さまのような心境に至ったのである。
稲垣 えみ子