風呂場や洗面所まわりは家の中の「ふきだまり」エリア

ご自身の家の風呂場や洗面所まわりを見ていただければわかると思うのだが、ここはこれといった自覚もないまま、案外驚くほどのモノが地味にギッシリと詰め込まれている場所だ。タオルなどのほか、各種化粧品とかシャンプーとか、あるいは洗剤とかスポンジやブラシなどの様々なお掃除グッズの類などなど。

いわば家の中の「ふきだまり」といいますか、舞台裏といいますか、人前には晒さらしたくないもの、表に置いておくにははばかられるようなものが集結する場所なんですよね。

表向きはスッキリ暮らしている人も、案外ここには雑多なものがぎっしりたまっていたりする。たとえていうなら、どう見ても素顔としか思えないナチュラルメークが、実はあらゆる化粧品を駆使した精巧なアートのごとき「作品」であることが身も蓋もなくわかっちゃう場所といいますか。つまりは、その人のリアルな実像があられもなく露呈する場所なんですよね。

となれば、私のような凡人となれば、そのとっちらかりぶりといったらいうまでもなかったのでありました。例えばタオルなど置くスペースは、天井までの作り付け収納という超たっぷりした場所だったにもかかわらず、大小の数限りないタオルのほか、ついつい買ってしまうオシャレなバスソルトやら、使い切れないのに捨てられもしない香水やら、ネイル用グッズ一式が詰まった箱やらでぎゅうぎゅうと満杯だった。

さらに、洗面台下の収納スペースには、風呂用、住まい用、トイレ用などのありとあらゆる洗剤、各種スポンジ、ブラシ類、掃除用のボロ布などがぎっしり。さらに洗濯機上のスペースにも数種類の洗剤がずらり。もちろん、洗面台横の広い化粧品入れスペースもぎゅう詰め。

まずはクレンジングミルクやら化粧水やら乳液やら美容液やらパックやらの、加齢とともにどこまでも増え続ける基礎化粧品、そしてファンデーション、白粉、ハイライト、アイシャドーやマスカラ、頰紅などのぬりぬり系化粧品。加えて化粧専用のスポンジやらブラシやらカット綿やら綿棒やらパック用シートやら眉ブラシやらまつげ用ビューラーやらの「化粧グッズ」がぎっしりと入っておりましたとさ。……ふう。

必要最低限を残し「全捨て」、ゴマ油で乾燥知らず

こうして思い返すだけで、ほんの7年ほど前の自分の暮らしがどこぞの惑星の人の出来事のように遠く思える。何しろですね、私、上に挙げたものどもを、ほぼ一切合切捨ててしまったのだ。

もちろん、できることなら捨てたくなんかなかった。だってこれらのものたちは、一言でまとめれば「外見を取り繕うためのグッズ」。人前に出ても恥ずかしくない顔やお肌を演出するための、そして自分のお部屋もスッキリ清潔に保たれているように演出するための。それを手放すってことは、社会生活を捨てるようなものではないか。いやいやいくらなんでも……である。

色気づくお年頃じゃないとはいえ、それでもセルフイメージってバカにしたもんじゃない。この世知辛い社会を元気に生きていくための必須なヨロイみたいなもんでしょ。それを「なくす」なんて、そもそも考えたこともないよ? 

だが私には選択の余地はなかった。

何しろ会社を辞めて引っ越した築50年の収納ゼロの家の中でも、洗面台とトイレが一体となった洗面スペースの置き場のなさといったら驚異的としかいいようのない惨状だった。タオル置き場もゼロだし洗面台下の収納スペースもない。洗面台も昔の公衆便所みたいに極小なうえ、表面がどこもかしこもスキー場のゲレンデのように複雑に斜めになっていて、どうやっても上にものが置けない。

ってことで、結局以下のようなことになってしまった。

・タオル類……フェイスタオル一本残して、全捨て

・化粧品類……全捨て・シャンプーなどヘアケア商品……全捨て

・住まいや衣類の洗剤……石鹼と重曹とクエン酸のみ残して全捨て

・スポンジなど掃除用小物……雑巾一枚残して全捨て

いやーこうして書くと、我ながら相当なことをやってのけたと言わざるをえない。ちなみにこれでどうやって生活しているかというと、体も髪も湯で洗い、風呂から上がる時は小タオルで拭く。使ったタオルはすぐに手でちゃっと洗って干せば翌日には乾く。つまりはタオルは小一本だけあれば良いのだ。

化粧品類は全て捨てた代わりに、ゴマ油(スーパーに売ってる透明のやつ)で毎朝全身マッサージ。これだけで乾燥知らず。ちなみにこれはインドのアーユルヴェーダという健康法に則ったれっきとした美容法である。「拭く系の掃除」は雑巾一枚で全てを賄う。使い終えればすぐに洗って干せば翌日も同様に使えるので一枚で良し。

ふきだまりがスッキリすれば、モヤモヤも不安も吹き飛ぶ

案外やればできるな……というのが噓偽らざる感想であった。というか驚きであった。何しろここまで極端なことをしても何の支障もなかったのである。いや支障がないどころか圧倒的にラクで気持ち良いのだ。

だってタオルも雑巾も一つしかないとなれば使い終わればすぐに洗って干すしかないわけで、やってみれば一瞬で終わるし、何よりその一瞬で全てがスッキリとカタがつく。何かが「汚れている」時間が限りなくゼロに近いのである。

これぞ真のスッキリじゃん! そしてここまで究極にモノを減らせば、当然のことながら全てのものが絶えず「稼働している」ことになり、これもまたとても気持ちのいいことなのであった。

私を取り囲むものたちがみんな俄然イキイキする世界。休みなく活躍している小さなタオルも雑巾も、自分は日々役に立っているんだ、活躍しているんだと自信満々にしか見えない。そんな誇りに溢れたものだけに囲まれて暮らすなんて、このもの余りの時代を生きる人のほとんどはやったことないと思いますが、で、もちろん私もやったことなかったんだが、っていうかそんな世界があるなんてことも知らなかったんだが、これが本当に、思いのほかめちゃくちゃ気持ちいいんである。

自分も含めて、人もモノも結局のところ、何かの役に立ってるってことが一番幸せなんだよねと大切なことに気づかされる。逆に言えば、これまで大量のものを「ふきだまりスペース」にふきだまらせてきたということは、そのほとんどのものが活躍の場を与えられず「オレの存在価値って……」と暗い気持ちで延々と過ごしていたということに他ならない。

つまりは私、スッキリ暮らすためと称して、実際のところはドンヨリと暗い、全くスッキリしないものたちを大量に抱え込んで生きてきたのだ。なるほどスッキリするための道具をスッキリと整理することこそが、真のスッキリだったんだ! ……としみじみ思う今日この頃。

稲垣 えみ子