「オー人事、オー人事」というナレーションとともにチャイコフスキーの楽曲『弦楽セレナーデ』が流れるCMを覚えていますでしょうか? 1997年から2004年まで約6年間シリーズ展開されていた人材派遣会社のCMです。40代以上の世代にとっては懐かしの名CM。あのメロディを耳にすると「転職」が思い浮かぶという方もいるのでは? 今回のテーマは「CMとクラシック音楽」。著書『生活はクラシック音楽でできている 家電や映画、結婚式まで日常になじんだ名曲』(笠間書院)から、音楽プロデューサーの渋谷ゆう子氏が、名曲に隠された作曲家の人生や時代背景を交えながら解説します。
ぶよぶよとした何かをやっつけて
クラシックの使い方が斬新すぎるのは、ゴキブリ退治の薬剤バルサンの2023年のCMです。引越しをしてきて荷物を出す前に、バルサンを焚いて害虫退治をしようという内容ですが、そこにエリック・サティ(1866〜1925)作曲の『ジムノペディ』第1番が使われています。不思議でおしゃれな雰囲気を持つピアノの楽曲です。
この曲を作ったエリック・サティは1866年にフランスで生まれました。小さな時から教会で奏でられるオルガンを聴くのが大好きだったようです。音楽家を目指してパリ音楽院に入学するも、教授から「才能ないから止めたら」と言われて退学してしまうという、かわいそうな青年でした。自分でも「学校は退屈」と言っていたとも。どうも学校というシステムに馴染めない人物だったようです。やっぱりというか当然というか、先生や友人たちから変わり者と言われていました。
ただ、音楽への興味関心は尽きず、退学したのちも当時のパリで文化人らが集っていたカフェ・シャ・ノワール(黒猫)に出入りするようになります。このカフェは小さなコンサートホールとしても機能していて、ピアノが置いてありました。ここでサティはピアノの演奏で生活費を得るようになります。この頃に作られたのが『ジムノペディ』第1番です。
サティは自分の音楽が目指すところを「家具の音楽」というタイトルに込めていました。つまりお行儀よく座って音楽を拝聴するという仰々しい鑑賞方法ではなく、そこに家具のように”在る“”ただそこに流れている“ことを目指したといいます。こうした哲学的な思いで音楽を作るようになった一方で、サティは奇妙なタイトルの楽曲も数多く残しています。代表的なものとしては『梨の形をした3つの小品』『ひからびた胎児』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』など、題だけでもインパクトのあるものばかりです。フランス語で指す梨というのも美味しい果実という意味だけでなく、まぬけ、ばかといった内容も含まれていて、サティの異端児ぶりが垣間見えます。
『ジムノペディ』第1番もご多分に漏れず、タイトルに怪しげな意味を持っています。ジムノペディという言葉は、若い男性たちが衣服を着ずに踊り狂って競い合うという、古代スパルタの祭りに由来しているとされています。
さらには、このタイトルの後には、「ゆっくりと苦しみをもって(Lent et douloureux)」という演奏上の指示が書かれているのです。じっくり、ゆったりとしたテンポで弾き、裸で踊り合う男たちのように競い合うことに加えて、じわじわと苦しみも加味していく楽曲……而(しこう)してバルサンはかくもゆっくりと、じっくりと、そして確実にゴキブリに効いてくるのです。苦しみをもって……なんと恐ろしい選曲ではありませんか。
渋谷 ゆう子
音楽プロデューサー